み言葉を託された者:ゼパニヤ(2)
あなたがた、恥を知らぬ民よ、共につどい、集まれ。すなわち、もみがらのように追いやられる前に、主の激しい怒りがまだあなたがたに臨まない前に、主の憤りの日がまだあなたがたに来ない前に。すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、主を求めよ。正義を求めよ。謙遜を求めよ。そうすればあなたがたは主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろう。ともあれ、ガザは捨てられ、アシケロンは荒れはて、アシドドは真昼に追い払われ、エクロンは抜き去られる。わざわいなるかな、海べに住む者、ケレテの国民。ペリシテびとの地、カナンよ、主の言葉があなたがたに臨む。わたしはあなたを滅ぼして、住む者がないようにする。海べよ、あなたは牧場となり、羊飼の牧草地となり、また羊のおりとなる。海べはユダの家の残りの者に帰する。彼らはその所で群れを養い、夕暮にはアシケロンの家に伏す。彼らの神、主が彼らを顧み、その幸福を回復されるからである。「わたしはモアブのあざけりと、アンモンの人々の、ののしりを聞いた。彼らはわが民をあざけり、自ら誇って彼らの国境を侵した。それゆえ、万軍の主、イスラエルの神は言われる、わたしは生きている。モアブは必ずソドムのようになる。アンモンの人々はゴモラのようになる。いらくさと塩穴とがここを占領して、永遠に荒れ地となる。わが民の残りの者は彼らをかすめ、わが国民の残りの者はこれを所有する」。この事の彼らに臨むのはその高ぶりによるのだ。彼らが万軍の主の民をあざけり、みずから誇ったからである。主は彼らに対して恐るべき者となられる。主は地のすべての神々を飢えさせられる。もろもろの国の民は、おのおの自分の所から出て主を拝む。
ゼパニヤ書2:1〜11
今週も主は怒っておられます。全人類に対して怒っておられます。しかし、この中においても、やがて到来する安堵の予兆も記されています。
この時代は実は、世界史の中でも類を見ないほど、どんでん返しにどんでん返しが続くような国際的に不安定な時代でした。私たちは、ウクライナでの戦争などを見て、「世の中は今後どうなっていってしまうのだろう」と不安に感じるかもしれませんが、その時代は今とは比べ物にならないほどの地殻変動が世界中で起こっていました。今まで長くメインプレーヤーだったエジプトとアッシリアが姿をひそめ、新生バビロンのようなハイブリッド新参者が台頭するようになりました。かと思えば、そのバビロンも一世紀そこそこの反映が一夜にしてペルシャに覆され、さらに混沌が続きます。ようやく紀元前480年にギリシャがサラミス海戦でペルシャに勝利し、私たちが歴史の教科書で知っているような現代の世界の基礎が出来上がっていきました。
そのような激動の時代をどうやって生き抜けば良いのでしょうか?軍事的・政治的な立場からではありませんが、近代の混沌とした時代で成功するにはどうすれば良いのかについて、さまざまな格言が残されています。
「あなたが何かをできると思った時、あるいはできないと思った時、おそらくあなたは正しい。」
ヘンリー・フォード
「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。」
エジソン
「壁というのは、できる人にしかやってこない。超えられる可能性がある人にしかやってこない。だから、壁がある時はチャンスだと思っている。」
イチロー
「できると思えばできる、できないと思えばできない。これは、ゆるぎない絶対的な法則である」
ピカソ
「我々が未来に信頼を持つには、まず我々自身を信頼することである。」
J.F.ケネディー
「たとえ僕の人生が負け戦であっても、僕は最後まで戦いたいんだ。」
ゴッホ
「いつまでも青くあれ」
孫正義
「私は決して障害に屈しはしない。いかなる障害も、私の中に強い決意を生み出すまでだ。」
ダ・ヴィンチ
「貪欲であれ。愚かであれ。」
スティーブ・ジョブズ
確かにどれも、よくわからないが何かエネルギーになりそうな、あるいは道標になりそうな言葉ですね。しかし、今日の聖句に示されたキーワードと大きく乖離したポイントが一つあります。
主を求めよ。正義を求めよ。謙遜を求めよ。
特に「謙虚」の概念は、以上の偉人たちの格言からは読み取れないですね。この大きな違いは何を示しているかというと、何をしようとしているかの違い、そして何よりもどこでそれをしようとしているかの違い、でしょう。偉人たちの言葉はすべて、この地上に偉業の痕跡を残そうとするためのものです。しかし、それだけであれば、それはソロモンも行き詰まった課題にぶち当たります。この世に何を残そうと、それはやがて忘れ去られてしまい、風を追うような虚しいことだと。
イェスが活動された時代も、混沌とした時代でした。当時の歴史家ヨセフスは、その時代を次のように記録しています。
「それは耐えるにはあまりにも苦しすぎたが、それを治す薬は飲むにはあまりにも苦すぎた。」
そのような社会の中で、成功者になるにはどうすれば良いのか、イェスは次にように教えられました。
こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
マタイ5:3〜10
これは、先の偉人たちの格言からすれば、まるで「負け犬の法則」のように思えてしまいますが、実はしたたかな成功者なのです。なぜなら、成功の功績が忘れ去られるのではなく、天に積まれた宝になるのです。
では、この地上でものづくりや創作活動をすることに意味がないのか?そうではなく、そのものづくりや創作活動の意図と影響に意味があるのです。つまり、何かのものづくりや創作活動をした結果、それが人の心を導いたなら、人が人に対して優しく親切にすることを導いたなら、人が自己よりも他人の平和を優先することを導いたなら、それはいつまでも残る功績でしょう。
だから、私たちの社会には、もっともっと、クリスチャンの感性を持ったビジネスマンが必要なのです。クリスチャンの医師が必要なのです。クリスチャンの研究者、パイロット、デザイナー、プログラマー、サラリーマンが必要なのです。より多くの成功者と宝とを残すために。
最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。
Iペテロ3:8〜9