八王子バプテスト教会通信

2月13日のメッセージ 2023年2月12日

み言葉を託された者:イザヤ(8)

アッスリヤの王はまたタルタン、ラブサリスおよびラブシャケを、ラキシから大軍を率いてエルサレムにいるヒゼキヤ王のもとにつかわした。彼らは上ってエルサレムに来た。彼らはエルサレムに着くと、布さらし場に行く大路に沿っている上の池の水道のかたわらへ行って、そこに立った。そして彼らが王を呼んだので、ヒルキヤの子である宮内卿エリアキム、書記官セブナ、およびアサフの子である史官ヨアが彼らのところに出てきた。ラブシャケは彼らに言った、「ヒゼキヤに言いなさい、『大王、アッスリヤの王はこう仰せられる。あなたが頼みとする者は何か。口先だけの言葉が戦争をする計略と力だと考えるのか。あなたは今だれにたよって、わたしにそむいたのか。今あなたは、あの折れかけている葦のつえ、エジプトを頼みとしているが、それは人がよりかかる時、その人の手を刺し通すであろう。エジプトの王パロはすべて寄り頼む者にそのようにする。しかしあなたがもし「われわれは、われわれの神、主を頼む」とわたしに言うのであれば、その神はヒゼキヤがユダとエルサレムに告げて、「あなたがたはエルサレムで、この祭壇の前に礼拝しなければならない」と言って、その高き所と祭壇とを除いた者ではないか。さあ、わたしの主君アッスリヤの王とかけをせよ。もしあなたの方に乗る人があるならば、わたしは馬二千頭を与えよう。あなたはエジプトを頼み、戦車と騎兵を請い求めているが、わたしの主君の家来のうちの最も小さい一隊長でさえ、どうして撃退することができようか。わたしがこの所を滅ぼすために上ってきたのは、主の許しなしにしたことであろうか。主がわたしにこの地に攻め上ってこれを滅ぼせと言われたのだ』」。その時ヒルキヤの子エリアキムおよびセブナとヨアはラブシャケに言った、「どうぞ、アラム語でしもべどもに話してください。わたしたちは、それがわかるからです。城壁の上にいる民の聞いているところで、わたしたちにユダヤの言葉で話さないでください」。しかしラブシャケは彼らに言った、「わたしの主君は、あなたの主君とあなたにだけでなく、城壁の上に座している人々にも、この言葉を告げるためにわたしをつかわしたのではないか。彼らも、あなたがたと共に自分の糞尿を食い飲みするに至るであろう」。そしてラブシャケは立ちあがり、ユダヤの言葉で大声に呼ばわって言った。「大王、アッスリヤの王の言葉を聞け。王はこう仰せられる、『あなたがたはヒゼキヤに欺かれてはならない。彼はあなたがたをわたしの手から救いだすことはできない。ヒゼキヤが「主は必ずわれわれを救い出される。この町はアッスリヤ王の手に陥ることはない」と言っても、あなたがたは主を頼みとしてはならない』。あなたがたはヒゼキヤの言葉を聞いてはならない。アッスリヤの王はこう仰せられる、『あなたがたはわたしと和解して、わたしに降服せよ。そうすればあなたがたはおのおの自分のぶどうの実を食べ、おのおの自分のいちじくの実を食べ、おのおの自分の井戸の水を飲むことができるであろう。やがてわたしが来て、あなたがたを一つの国へ連れて行く。それはあなたがたの国のように穀物とぶどう酒のある地、パンとぶどう畑のある地、オリブの木と蜜のある地である。あなたがたは生きながらえることができ、死ぬことはない。ヒゼキヤが「主はわれわれを救われる」と言って、あなたがたを惑わしても彼に聞いてはならない。諸国民の神々のうち、どの神がその国をアッスリヤの王の手から救ったか。ハマテやアルパデの神々はどこにいるのか。セパルワイム、ヘナおよびイワの神々はどこにいるのか。彼らはサマリヤをわたしの手から救い出したか。国々のすべての神々のうち、その国をわたしの手から救い出した者があったか。主がどうしてエルサレムをわたしの手から救い出すことができよう』」。しかし民は黙して、ひと言も彼に答えなかった。王が命じて「彼に答えてはならない」と言っておいたからである。こうしてヒルキヤの子である宮内卿エリアキム、書記官セブナ、およびアサフの子である史官ヨアは衣を裂き、ヒゼキヤのもとに来て、ラブシャケの言葉を彼に告げた。

II列王紀18:17〜37

 

これは、ヘゼキヤの人生の最大のピンチです。実際、預言者イザヤの人生の最大のピンチでもありました。もはやこの時点では王家と運命共同体だからです。

 

アッシリアの王セネカリブは、野戦指揮官たちを軍隊と一緒にエルサレムに送り、兵糧攻めにする準備を始めさせました。ヘゼキヤが一方的に服従関係を解いたことを忘れていませんので、何が何でもエルサレムを手中に収めるつもりです。それと同時に、心理作戦にも出ます。というのは、兵糧攻めは攻められる側にとっては地獄のような光景が繰り広げられますが、攻める側にとっても膨大な負担がかかるのです。短期決戦では、投入した兵力、失った人数、獲得した領土などを短期で生産して次の手を考えるのですが、兵糧攻めの場合は、通常は2、3年、場合によっては5年もの間、何の成果も得られずに莫大な経費ばかりがかかり続けるのです。その上、敵が呼んだ援軍にいつ背後を突かれるかもわからず、大人数で何年間も臨戦体制をとらなければなりません。日本の戦国武将の武田や上杉は、このような負担を嫌い、ごく小規模な事例以外は兵糧攻めは一切やらなかったとされています。逆に、兵糧攻めに踏み切る背景としては、「意地」と「余裕」がなければなかなか踏み切れません。農耕時期になると前線を離れて帰ってしまう農民兵士が昔は主流でしたが、数年がかりの大規模な兵糧攻めをするには農兵分離を実現して年間雇い続けることができる、別の言い方をすれば何の成果がなくても数年間給料を支払続けることができける、専用の軍隊を置くには大変な余裕が必要でした。そして、ユダヤに関して言えば、今のアッシリアは意地も余裕も十分にあるのです。

 

ただ、やはり無駄な体力消耗はしたくありません。そこで、「陽動作戦」ならぬ、「動揺作戦」に出ます。その頃の中央アジアの公用語であったアラム語ではなく、市内にいる一般庶民にもわかるように、ユダヤ語で布告します。市民を動揺させ、国内の一致を乱し、有利に運ぼうとしたのです。ユダがこれから籠城戦に入ればどのような地獄絵図が待っているのか、そしておとなしく国を明け渡せば悪いようにはしない、と揺さぶりをかけるのです。これに対して、市民はどのようにしたかといえば、かなり重要な事実をうかがわせる記述があります。

 

しかし民は黙して、ひと言も彼に答えなかった。王が命じて「彼に答えてはならない」と言っておいたからである。

 

これだけ究極の事態に陥ろうとしていたにしても、暴君ではない王の言葉を市民全員が守るということは、市民と国王との間にかなりの信頼関係があったということになります。王の人柄も、ここまで進めてきた宗教改革も国民から広い信頼が得られていたということです。しかし、自国民からの信頼だけでは戦争に勝てません。ここで、II列王紀19章を読みましょう。

 

セネカリブがわが自信の根拠地しているのは過去にいくつもの国に勝ち、その神々を打ち捨てたか、ということです。それに対して、天地の作り主である神に対して、そのような人工的な偶像と同じと考えるな、というのが主の答えです。聖書を信仰する私たちとしては当然の成り行きと思われるでしょうが、ここでは私たちはセネカリブから得られる教訓もあるのです。

 

セネカリブが自信のもとにしているのが、経験と実践です。私たち人間は学習する生き物ですから、過去にうまくいったこと、うまくいかなかったことは、今後の行動に大きな影響を与えます。一方、私たちは学習する生き物であるとは言っても、過去の学習の内容を事細かに分析するのを苦手とする生き物でもあるのです。何かをやってうまくいった、というのが強烈な経験値として残りますが、「なぜそれがうまくいったのか」や、「なぜそれが今後もうまくいくと思えるのか」のような分析は、非常に苦手な分野です。それが、今回はセネカリブの命取りになるのです。今回ばかりは選んだ相手がまずかったことと相まって。

 

一方のヘゼキヤは、前回の拙速な回避行動が最終的な解決法ではないことを学習しています。今回は全てを主に任せ、イザヤからの回答を待ちます。その回答とは、何もしなくても良い、じっとしていればセネカリブは自滅する、というものでした。

 

何もしなくてもいい!何という楽チンな戦勝でしょう!

いや、何もしなかったわけではありません。今までの数年間の言動がこの戦勝につながったのです。偶像を捨て、主のみを礼拝し、善事に努め、国民と価値観を共有してきたこの数年間が実ったのです。単純な行動からくる学習ではなく、「主を待ち望む」という生き方から生まれた結果なのです。これは、私たちにも同じことが言えます。自分の直感や感性、経験や実績に頼る日常ではなく主の言葉に頼る日常を送っていることによって、いざという時に、自分の直感や感性、経験や実績を遥かに超えた助けを得ることができるのです。

 

味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。若獅子は獲物がなくて飢えても主に求める人には良いものの欠けることがない。子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう。喜びをもって生き長生きして幸いを見ようと望む者は舌を悪から唇を偽りの言葉から遠ざけ悪を避け、善を行い平和を尋ね求め、追い求めよ。主は、従う人に目を注ぎ助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。

詩篇34:9〜16

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