八王子バプテスト教会通信

5月21日のメッセージ 2023年5月21日

み言葉を託された者:ミカ(1)

その床の上で不義を計り、悪を行う者はわざわいである。彼らはその手に力あるゆえ、夜が明けるとこれを行う。彼らは田畑をむさぼってこれを奪い、家をむさぼってこれを取る。彼らは人をしえたげてその家を奪い、人をしえたげてその嗣業を奪う。それゆえ、主はこう言われる、見よ、わたしはこのやからにむかって災を下そうと計る。あなたがたはその首をこれから、はずすことはできない。また、まっすぐに立って歩くことはできない。これは災の時だからである。その日、人々は歌を作ってあなたがたをののしり、悲しみの歌をもって嘆き悲しみ、「われわれはことごとく滅ぼされる、わが民の分は人に与えられる。どうしてこれはわたしから離れるのであろう。われわれの田畑はわれわれを捕えた者の間に分け与えられる」と言う。それゆえ、主の会衆のうちにはくじによって測りなわを張る者はひとりもなくなる。彼らは言う、「あなたがたは説教してはならない。そのような事について説教してはならない。そうすればわれわれは恥をこうむることがない」と。ヤコブの家よ、そんなことは言えるのだろうか。主は気短な方であろうか。これらは主のみわざなのであろうか。わが言葉は正しく歩む者に、益とならないのであろうか。ところが、あなたがたは立ってわが民の敵となり、いくさのことを知らずに、安らかに過ぎゆく者から、平和な者から、上着をはぎ取り、わが民の女たちをその楽しい家から追い出し、その子どもから、わが栄えをとこしえに奪う。立って去れ、これはあなたがたの休み場所ではない。これは汚れのゆえに滅びる。その滅びは悲惨な滅びだ。もし人が風に歩み、偽りを言い、「わたしはぶどう酒と濃き酒とについて、あなたに説教しよう」と言うならば、その人はこの民の説教者となるであろう。

ミカ書2:1〜11

 

今日は久々に新しい「み言葉を託された者」について考えます。預言者ミカです。ミカの親の名前が記されていないことから、ミカは完全に庶民の出身であったと推測されます。また、ミカの出身地はユダ南西部のモレシテ・ガテという小さな地方の町でした。ミカの予言の多くがエルサレムに対してなされたもので、特に都会生活の道徳的退廃に対するものでした。彼らは社会的正義や公正の欠如に加え、賄賂がまかり通っていました。その上に、預言者の口まで金で操ろうとしていたのです。

 

ミカはイザヤとほぼ同時期に活動していましたが、イザヤよりも先にエルサレムの崩壊を予言しました。同じ時期に活動していたとは言っても、イザヤが王室のインサイダーであったのに対して、ミカは虐げられている庶民を代表して予言しています。

 

イスラエルとユダが罰せられたのは、偶像礼拝と社会的な正義と公正の欠如のためだったことは今まで何度か見てきました。私たちは多くの場合、偶像礼拝の悪の方が際立って見えるのですが、実はそうではないということが方々から見て取れます。というのは、イスラエルは偶像を拝んだり棄てたりを繰り返していましたが、社会的公正が実現されたことはほぼありません。

 

そこでヨシュアは民に言った、「あなたがたは主を選んで、主に仕えると言った。あなたがたみずからその証人である」。彼らは言った、「われわれは証人です」。ヨシュアはまた言った、「それならば、あなたがたのうちにある、異なる神々を除き去り、イスラエルの神、主に、心を傾けなさい」。民はヨシュアに言った、「われわれの神、主に、われわれは仕え、その声に聞きしたがいます」。

ヨシュア記24:22〜24

 

このような形でイスラエルが偶像に背を向けて主に従ったのは、一度や二度ではありませんでした。北のイスラエルの中でもエホバ崇拝に立ち返ったこともあります。ある意味、これはナショナリズム的な背景が影響しています。自分たちはアブラハムの聖なる子孫であるから、アブラハムの神を拝むのだ、と。

 

これに対して、社会的な公正というのはそう簡単にいきません。

「うまくいくからそうする」

「周囲もみんなこのようにしている」

という発想が、彼らの資本主義の乱用に拍車をかけていました。

 

この先の話のためにも一点抑えておきたいと思います。時に、イスラエルや初代教会に対して主が制定された経済モデルは社会主義であったという見解が聞かれます。しかし、これは実態とはかなり異なります。イスラエルの経済モデルは、資本主義+共同主義のハイブリッドな経済モデルでした。

 

基本的に、経済活動そのものに関してはほぼ規制がなく、商売して儲けようと思えば、いくらでも儲けることができました。そして、儲ければ儲けるほど重税を課するような制度がなかった一方、持たない者に対して無慈悲であってはならない、必要なものはいくらでも与えなければならない、という資本主義の原理とは真逆な原理がそこにありました。

 

あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない。これは彼の身をおおう、ただ一つの物、彼の膚のための着物だからである。彼は何を着て寝ることができよう。彼がわたしにむかって叫ぶならば、わたしはこれに聞くであろう。わたしはあわれみ深いからである。

出エジプト記22:25〜27

 

こんなことをしたら、いくら稼いでも全部貧民に持って行かれてしまうではないか!というのが、同時の商人や実業家の正直な気持ちだったと思います。しかし、このハイブリッドシステムにはもうひとつの要素がありました。外貨です。しかも、他の国からの外貨ではありません。

 

兄弟に利息を取って貸してはならない。金銭の利息、食物の利息などすべて貸して利息のつく物の利息を取ってはならない。外国人には利息を取って貸してもよい。ただ兄弟には利息を取って貸してはならない。これはあなたが、はいって取る地で、あなたの神、主がすべてあなたのする事に祝福を与えられるためである。

申命記23:19〜20

 

この「外貨」とは、公正と社会的正義を守る民に対して保障された、神からの「資金注入」です。これがあって初めて、イスラエルの経済活動が正常に回るのです。

 

今回、ミカ書を学んでいく中で、このような点から私たちの現代社会、私たちの信仰生活も見直していきたいと思います。古代の中東の経済から学べるものは何もないだろう、と思ったら大間違いです。現在を生きる私たちのために書き残された言葉でもあるのですから。

 

あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。

ルカ6:30〜38

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