八王子バプテスト教会通信

8月8日のメッセージ 2021年8月8日

「福音を告げる者」(カールトン名誉牧師を覚えて)

 

では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。

ローマ10:8〜15

 

今日は、8月7日に天に召されました、当教会のカールトン名誉牧師の足跡を辿り、私たちが受け継がなければならないことについて考えたいと思います。

 

来日して56年、祖国に帰ることもほとんどなく、日本での宣教に生涯を捧げました。人からは「すごい」とか「立派だ」とかよく言われましたが、本人が言うには、「それは自分の選択ではなく、他に選択肢がなかった」とのことでした。どういうことでしょうか?

 

1933年の6月22、カールトン・ワレス・エルキンズとして、アーカンソー州の貧しい農家に、9人の兄弟姉妹の6人目として生まれました。1933年はアメリカに端を発した「世界大恐慌」のどん底の年でした。農家のため、食べるものには量的には困りませんでしたが、ごく限られた種類のものを食べる日々が続きました。学校の勉強の時間以外はほぼ全て、他の男兄弟同様、早朝から日没まで畑で野良仕事でした。

14歳の時に信仰の決心をし、救いを受け、翌年のイースターにバプテスマを受けました。

 

それから3年後、17歳のとある日の出来事でした。いつものように、インゲン豆畑で草取りをしながら、讃美歌を歌っていました。そうすると、毎週の礼拝で聞いている説教の様なメッセージのアイデアが次々と沸き上がり始めました。こんな説教を誰かしてくれないかな、こういう説教を聞きたいな、と考えていました。主よ、誰かこんな説教をすればいいのに!と心の中でつぶやきました。すると、声が聞こえました。

「あなたがすれば良い。」

考えてみたこともなかったこの展開に、とっさに考えました。気のせいだ、そうだ、きっと気のせいだ。

そのまま仕事を続けていると、また声がしました。

「その説教はあなたがすれば良い。」

こんな貧しい農場の男の子が説教者になることは全くイメージできずにいましたが、その召しを受け入れ、インゲン畑の中でひざまづいて祈り、自身を捧げました。

 

それから、神学校に進み、按手を受けますが、神学校でもその後も、人の百倍 堅真面目な性格が災いしました。街の大きな教会の牧師に就任するも、就任初日にその教会の問題点を指摘・非難する辛辣な説教をし、翌週に解任されたこともあります。歩いているとそこに落ちている石ころを全て蹴りおこす様な堅物の性格が敬遠される様になり、やがては山間の過疎化集落の教会を巡回牧会をする様になりました。

 

そのうち、コロラド州のアーバダ(州都デンバー郊外のベッドタウン)で、開拓伝道で立ち上がったが牧会者がいない教会があると声がかかり、就任しました。しかし、問題がありました。デンバーとその周辺は、アーカンソーと比べ物にならないほど物価が高い大都会だったのです。開拓伝道の無給に等しい牧師では、到底生活できません。組織の後ろ盾もなく、自動車の板金工として週六日働き、その給料で教会の家賃を払っている状況でした。教会で知り合った妻(私の母)と結婚するも、唯一家賃が払える家は、貧困地区のヒスパニック街の中でした。白人であるにもかかわらず暖かく迎え入れられ、周囲のヒスパニックの方々の優しさに見守られて、初子(私)に恵まれました。ところが、結婚するまでは長いこと一人暮らしだった私の母は家庭料理を作ることをあまり知らず、近所の優しいヒスパニックの主婦たちに料理を教えてもらっていました。その影響もあり、私は昭和40年代の日本でメキシコ料理を食べて育つことになりました。

 

その様な地区に住みながら、カールトン牧師は考える様になりました。アメリカにいながら、英語がほとんど喋れず、クリスチャンと自称していながらもキリストの福音をほとんど全く知らない人々がこれだけたくさんここにいるのだとすれば、国境の向こう(中南米)には、その福音を必要とする人が一体どれだけいるのだろう?この様に海外宣教に徐々に引き寄せられていきます。下準備として、スペイン語の勉強にも精力的にのめり込みました。

 

そして、ある日、主から海外宣教の召しが来ました。

「日本に行きなさい。」

 

「は?」

今までの信仰生活で経験したことがない「肩透かし」です。猛反発します。

「主よ、お言葉ですが、日本というのは、ついこの間まで戦争していた国でしょう?おかしな食器を使っておかしな食べ物を食べる国でしょう?今回ばかりは、絶対イヤです!」

しかし、主は休みも安きも与えません。昼も夜も苛まされます。ついに耐えられなくなります。

「わかりました、主よ。行きます。きっといつか。」

しかし、主はそれでも許しません。二週間もの間、昼も夜も苛まされます。最後に、音をあげます。

「負けました。おっしゃる通り、すぐに日本に行きます。」

ヨナになりかけはしましたが、日本に向かう船(飛行機)にようやく乗り込みました。

一歳の子供(私)と臨月の妻と一緒に日本に到着した際、持っていたのは唯一現金5ドルと、先に日本入りしていたサリバン先生(カールトン牧師の神学校時代の先輩であり、私の神学の恩師)の電話番号だけでした。しかし、「めぐみ汝に足れり」、その後は赤貧こそあれ、「めぐみにもれたることなかりき」を実感し、実証していきます。

 

ここで、最初にお話しした、「それは自分の選択ではなく、他に選択肢がなかった」の意味がお分かりいただけると思います。自分が説教者として招かれたのも、日本への宣教師として招かれたのも、自分の意思は一切なく、主の御意思のみであった、ということです。

 

さて、その後宣教活動を進める中で、コミュニティーにおいてよく知られる人物になっていきます。英語と日本語の両方ができ、子供たちにとって人当たりがいい性格から、学校での英語の助教師としての仕事がいろいろ入る様になりました。そこで目の当たりにしたのは、知識を鍛える勉強をさせながらも、心のケアも精神のケアも皆無の日本教育現場の姿でした。ここでは生徒たちに心を寄せ、職員会議と激しく衝突することもありました。

 

そして、年齢の関係から教育現場を離れなければならなくなった時、生徒たちのために書き残した、「人生の十二箇条」があります。それをここに掲載したいと思います。

 

十二箇条「恐れてはいけません」

1. 知らないものを恐れてはいけません。研究し、試し、探求し、探りなさい。分かるようになったものは恐れる必要がありません。

2. 新しいものを恐れてはいけません。何でも、最初は新しいものだったのです。それが何かを学び、良いものを使い、悪いものを捨てればいいのです。

3. 失敗を恐れてはいけません。失敗を恐れるということは、絶対にチャレンジしないということです。どんな成功も、失敗の涙の上に築かれたものです。唯一の本当の失敗とは、チャレンジしないという名の失敗です。

4. 敵を恐れてはいけません。それどころか、敵とは関係を構築しなさい。敵はあなたにとって重要な存在です。友人も教えてくれないことを教えてくれます。

5. 困難を恐れてはいけません。困難、病気、そして貧困さえも、人生の価値そのものを教えてくれます。さらに、見せかけの友人と、本当の親友とを選別してくれます。

6. 未来を恐れてはいけません。成功は、ものすごい知性や力によるものではなく、正しい生き方をしようという決意によるものです。

7. 過去を恐れてはいけません。自分の誤りや過ちを直視しなさい。罪悪感ほど厳しい刑罰はなく、後悔に生きることほど残酷な牢獄はありません。

8. 憎しみを恐れてはいけません。ただ、悪い考えや悪事のみを憎むようにしなさい。何があっても人を憎んではいけません。

9. 愛を恐れてはいけません。確かに、愛は重く、自発的かつ無条件にすべてを捧げることを要求するものです。全ての人、特に敵を愛しなさい。そうすれば、人生のすべてが楽になります。

10. 人生を恐れてはいけません。人生は簡単でもなければ公平でもありませんが、素晴らしいものです。人生は生き生きと生き抜くものです。善悪も、愛憎も、全て人生という素晴らしい一幕の一部です。生きていることは素晴らしいです。恐れてはいけません。

11. 死を恐れてはいけません。死を恐れてしまったら、既に死んだも同じです。身の回りをきちんとしなさい。人に憎まれても、自分に非がないようにしなさい。友人はお金や行動で釣った人ではなく親友であるようにしなさい。創造主と和解すれば、心配事はありません。

12. 神を恐れてはいけません。神は、あなたが傷つくことを望んでいません。神は、素晴らしいことを体験するためにあなたを創られましたし、あなたのために素晴らしいことを備えて下さっています。神を最大の親友にすれば、孤独になることはありません。

 

この教えを後に託して、教育現場を離れました。

 

さて、カールトン牧師はこの様にして生涯を福音伝道に捧げ、昨日、「お疲れ様」と呼び戻されて「心の故郷」に帰って行きました。しかし、今日のこの話はカールトン牧師を神格化するためのものではありません。欠点も短所も多くありました(実の息子が証言するからには間違いありません)。しかし、神は完全な器を求めておられるのではなく、この不完全な土の器の中に完全な福音を携え行かせるのです。その福音の全きことを際立たせるために。カールトン牧師は、多くの失敗をしながらも、試行錯誤で福音を自分の光が届く範囲で広げたのです。

 

しかし、私たちの周囲には、カールトン牧師の光が届かなかったであろう人々が大勢いるのではないでしょうか?福音伝道とは、大先生と言われる人が一人いて福音伝道をして、あとの者はそのサポートをする、というものではありません。一人一人が、自分が置かれたところで、自分の照らせる範囲の照らすというものです。私たち一人一人には、他の誰にも光を届かせることができない、隅の人々が何人もいるはずです。職場に、学校に、ネット上に。その一人一人に福音の光を届かせることが、私たち一人一人の責任で、その責任とは、祖国を捨てて異国の地に骨を埋める覚悟と何ら変わらない覚悟と重要性を伴うものです。み国における報いもそれを下回ることは決してありません。

 

灯台ははるか 沖を照らせど

手にある灯火 岸にまたたく

手にある灯火 照らし続けよ

悩む船人の 目印とならん

旧聖歌集523番

 

あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

マタイ5:14〜16

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