八王子バプテスト教会通信

9月12日のメッセージ 2021年9月12日

み言葉を託された者:モーセ(5)

 

その後、モーセとアロンは行ってパロに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『わたしの民を去らせ、荒野で、わたしのために祭をさせなさい』と」。パロは言った、「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主を知らない。またイスラエルを去らせはしない」。彼らは言った、「ヘブルびとの神がわたしたちに現れました。どうか、わたしたちを三日の道のりほど荒野に行かせ、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしなければ主は疫病か、つるぎをもって、わたしたちを悩まされるからです」。エジプトの王は彼らに言った、「モーセとアロンよ、あなたがたは、なぜ民に働きをやめさせようとするのか。自分の労役につくがよい」。パロはまた言った、「見よ、今や土民の数は多い。しかも、あなたがたは彼らに労役を休ませようとするのか」。その日、パロは民を追い使う者と、民のかしらたちに命じて言った、「あなたがたは、れんがを作るためのわらを、もはや、今までのように、この民に与えてはならない。彼らに自分で行って、わらを集めさせなさい。また前に作っていた、れんがの数どおりに彼らに作らせ、それを減らしてはならない。彼らはなまけ者だ。それだから、彼らは叫んで、『行ってわたしたちの神に犠牲をささげさせよ』と言うのだ。この人々の労役を重くして、働かせ、偽りの言葉に心を寄せさせぬようにしなさい」。そこで民を追い使う者たちと、民のかしらたちは出て行って、民に言った、「パロはこう仰せられる、『あなたがたに、わらは与えない。自分で行って、見つかる所から、わらを取って来るがよい。しかし働きは少しも減らしてはならない』と」。そこで民はエジプトの全地に散って、わらのかわりに、刈り株を集めた。追い使う者たちは、彼らをせき立てて言った、「わらがあった時と同じように、あなたがたの働きの、日ごとの分を仕上げなければならない」。パロの追い使う者たちがイスラエルの人々の上に立てたかしらたちは、打たれて、「なぜ、あなたがたは、れんが作りの仕事を、きょうも、前のように仕上げないのか」と言われた。そこで、イスラエルの人々のかしらたちはパロのところに行き、叫んで言った、「あなたはなぜ、しもべどもにこんなことをなさるのですか。しもべどもは、わらを与えられず、しかも彼らはわたしたちに、『れんがは作れ』と言うのです。その上、しもべどもは打たれています。罪はあなたの民にあるのです」。パロは言った、「あなたがたは、なまけ者だ、なまけ者だ。それだから、『行って、主に犠牲をささげさせよ』と言うのだ。さあ、行って働きなさい。わらは与えないが、なおあなたがたは定めた数のれんがを納めなければならない」。イスラエルの人々のかしらたちは、「れんがの日ごとの分を減らしてはならない」と言われたので、悪い事態になったことを知った。彼らがパロを離れて出てきた時、彼らに会おうとして立っていたモーセとアロンに会ったので、彼らに言った、「主があなたがたをごらんになって、さばかれますように。あなたがたは、わたしたちをパロとその家来たちにきらわせ、つるぎを彼らの手に渡して、殺させようとしておられるのです」。モーセは主のもとに帰って言った、「主よ、あなたは、なぜこの民をひどい目にあわされるのですか。なんのためにわたしをつかわされたのですか。わたしがパロのもとに行って、あなたの名によって語ってからこのかた、彼はこの民をひどい目にあわせるばかりです。また、あなたは、すこしもあなたの民を救おうとなさいません」。

出エジプト5章

 

モーセは神に言われた通り、アロンと一緒にパロに陳情に行きます。しかし、事は思うようには運びません。パロが頑固になってイスラエルの民を中々解放しないであろうことはモーセも理解していましたが、モーセ自身にではなく民に直接被害が及ぶとは思っていなかったでしょう。今まで民にワラを提供して粘土を作らせていたエジプト人たちが、ワラの提供を辞めたのです。ワラが無ければ、代用品を見つけるしかありません。何せ、ノルマは減らしてはならないと言われているのですから。そこで、刈り株(イネ科植物等の刈り株)などを探してレンガを作りますが、作業効率が圧倒的に悪くなってしまい、以前にも増して悪烈な環境のもとで強制労働が強いられていきます。

 

イスラエルの長老たちは、こんなにされては敵わない、とパロに抗議にいきます。するとパロは、いいます。

「お前らは怠け者だから主に犠牲を捧げに行くと言うのだ。ダメだ。」

しかし、「主に犠牲を捧げに行く」と言ったのは民でも長老たちでもなく、モーセです。長老たちはその点を見逃しませんでした。そしてモーセとアロンに会うと、「とんでもないことをしてくれたな、神に裁かれてしまえ」と激しく責め立てられます。その上、この一件で、民はモーセの言葉に耳を貸さなくなります。それ以降、実際に神からの御告があっても、それを語るモーセの言葉を聞き捨てます(出エジプト記6:9)。モーセにとってはとてつもなく、理不尽で辛い時期だったでしょう。

 

しかしその先、神は本格的に動き始めます。いわゆる、「エジプトの十の災い」です。みなさま、聖書を見ないで順序正しくこの十の災いを言えるでしょうか?とっさに全部言える人は滅多にいないと思うので、羅列してみました。

1.血のナイル川の災い

2.カエルの災い

3.ブヨの災い

4.アブの災い

5.家畜疫病の災い

6.腫れ物の災い

7.雹の災い

8.イナゴの災い

9.暗闇の災い

10.長子皆殺しの災い

第一の災いから第九の災いまで、モーセがパロの前で解放を要求し、パロがそれを拒み、神が災いを下し、パロが助けを求めて災いが取り去られる、の繰り返しでした。イスラエルの人々は何もせずに傍観していれば良かったのです。しかし、第十の禍に関しては、モーセはイスラエルの人々の協力が必要です。しかも、かなり危険を伴う行動を民に求めなければなりません。民は聞き従うでしょうか?というよりはそれ以前に、モーセは民にもう一度神の言葉を語る勇気があるでしょうか?

 

日本には、「あつものに懲りてなますを吹く」という諺があります。これは、熱い食べ物で口の中を火傷してしまった経験のある人は、以降は冷めた食べ物でも用心して吹いて冷まそうとする、というものです。いわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)です。トラウマを経験したことがある人は、身を守ろうとする本性から、その経験を二度としないよう行動をしがちです。それに対して、今回は特にモーセの意思の強さと信仰の強さが試されます。というのも、モーセがイスラエルの民に頼まなければならない行動は並大抵のものではなかったのです。

 

そこでモーセはイスラエルの長老をみな呼び寄せて言った「あなたがたは急いで家族ごとに一つの小羊を取り、その過越の獣をほふらなければならない。また一束のヒソプを取って鉢の血に浸し、鉢の血を、かもいと入口の二つの柱につけなければならない。朝まであなたがたは、ひとりも家の戸の外に出てはならない。主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。

出エジプト12:21〜23

 

出エジプト12章は、過越の規定を定めた、モーセの律法の最初の部分です。これが私たち新約教会の聖餐式の基本になっています。今まで何度か、この箇所からは聖餐式の本質と愛餐会との違い、コリントの教会がなぜ聖餐式に関連して神に罰せられたかなど見てきましたが、今回はモーセが主題のため、そのテーマは一旦先送りしましょう。

 

要は、各家庭に、子羊を屠殺(とさつ)することを命じているのです。しかも、こっそりではありません。自分たちの家の入り口の鴨居と柱に塗りつけて、その家の者が動物を屠殺したことが明白にわかるように、いわば「宣言」しなければならないのです。

 

しかし、ひとつ問題があります。イスラエルの人たちは、勝手に動物を屠殺してはならなかったのです。エジプトの祭司を通して出なければ、勝手にこういうことをしてはならなかったのです。そして、その行為の罰は、死刑だったのです。つまりモーセは、イスラエルの各家庭に、死刑になるかもしれない行動をとることを要請しなければならなかったのです。命がけの行動が求められたのです。

 

キリストの予型(よけい)である過越の羊は、このプロセスで命を落とすわけですが、その恩恵を受ける側も同じように命を捧げる思いで取り組む点も、私たちの新約の福音と一貫したテーマです。

 

われいのちを なれに与え

血になが身を 清くなして

死と黄泉の手より なれを解きぬ

いかなるものもて なれ応えし

 旧聖歌周157番

 

モーセは勇気を振り絞ってイスラエルの長老たちを集め、この言葉を告げます。そして、イスラエルの民はこの言葉を受け入れ、行動に移します。6章の時点では全くいうことを聞かなくなっていたのに、なぜここまで危険な行動を求められても応じるようになっていたのでしょうか?

 

彼らは、第一から第九までの災いを見ていて、神が自分たちのために本気で動き始めていることを知ります。しかし、神は一方的にこれらの災いを淡々と下しているわけではありません。イスラエルの人々に無視されるようになっても、めげずに神の言葉に従ってパロの元に通い、神の言葉を告げ続けるモーセの姿がそこにあったのです。つまり、イスラエルの民が見ていたのは、「神に従うことによってモーセの人生の中に働く神の力」だったのです。それこそが、イスラエルの民の心を動かし、大きな行動力の根源になったのです。

 

私たちが口で福音を語ることは簡単ですが、説得力は小さいでしょう。私たちが都合が悪くなるとすぐに福音を語らなくなったりしたら、周囲はすぐに気付き、それによって私たちを評価するだけではなく、福音そのものもそれによって評価してしまいます。しかし、私たちが「時が良くても悪くても」語り続け、それによって私たちの人生の中に神が働くのであれば、これは強烈な証しになります。

 

神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。

コロサイ1:27

 

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神が、イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにして下さり、あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願う。栄光が、世々限りなく神にあるように、アァメン。

ヘブル13:20〜21

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