八王子バプテスト教会通信

3月21日のメッセージ 2021年3月21日

「集いの意味」

 

愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。

ヘブル10:24〜25

 

リモート生活が長つく続き、「ニューノーマル」と言われる新しい生活様式が定着し、仕事の仕方も変わりつつあります。教会ではリモートの礼拝もすっかり定着してきています。仕事では効率化が図れたり、通勤時間の無駄が減らせたりなど、良い側面も見られます。礼拝に関しても、もう礼拝堂に集まらなくてもいいのではないか、教会の礼拝も今後はこの新しい様式で良いのではないか、という話も聞かれます。しかし、様々な側面から、それが教会のあるべき姿ではないことが聖書から読み取れます。私たちは、お互いの交わりを必要としているのです。どのように必要としているのでしょうか?

 

  • お互いを高めるため

だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。

Iテサロニケ5:11〜13

 

私たちは様々な立場や背景から、同じ信仰を持つ者として、ひとつの体として集います。様々な立場からお互いを励まし合い、教え合うことができるのです。

 

  • お互いを尊重する心を忘れないため

実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。

Iコリント12:14〜18

 

主が人を用いるとき、必ずしも何かが得意な人にそれをさせられるのではなく、全く不向きと思われる人に賜物を与え、その御用にあたらせられることもあります。私たちはお互いの中で主がそのように働かれているのを見て、自分も用いられるような生き方を心がけることができます。

 

  • 世間の悪影響を減らすため

もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それはなんの役に立つのか。もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」。まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。

Iコリント15:32〜33

 

私たちが兄弟姉妹との交流を持っていない間も、世間の人々からも、テレビやネットからも、影響を受けます。周囲の人明らかに極悪非道な人であれば、影響を受けまいと構えるでしょうが、多くの人はそうではなく、いわゆる「いい人」なのです。そうすると、私たちは油断してしまいます。相手は悪いことをしなくても、根底にある価値観はキリスト者の価値観とは異なるものです。「この地上に生きている間で全てが完結する」という考えや、「徳を積んで天国に行く」という間違った考え方を基本にした生き方に、私たちも影響されてしまう可能性があり、週に一度でもお互いにリセットする必要があります。「鉄は鉄をとぐ、そのように人はその友の顔をとぐ。」(箴言27:17)とある通りです。

 

  • お互いに赦し合い、祈り合うため

だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。

ヤコブ5:16

 

自分の弱さを他人に告白するのは、楽しいことではありませんが、必要なことです。また、お互いのために祈ることは全員がしなければならないことです。「私は何もできないからみんなの役に立てない」という人も、義人の祈りを捧げることができれば、その群にとって貴重な存在となります。

 

  • イェスご自身がそれを望まれているから

ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

マタイ18:20

 

夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。

エペソ5:25〜27

 

イェスがあれだけ大きな犠牲を支払われたのは、ご自分の教会をあるべき姿でご自分に迎えるためです。不活性化された状態で迎えるためではありません。

「集わなくても良いのではないか」という考え方が起こりうるのは、ひとつには間違った教えが社会に定着していることもあります。例えば、日本では「無教会主義」(内村鑑三)や、ヨーロッパでは「不可視総合教会」(ルター)などの誤った教えの影響が社会に定着してしまっています。

 

この他にも、私たちが共に集うべき理由が色々あるかもしれません。どのようなものがあるか、考えたり話し合ったりしましょう。リモート礼拝は、今はコロナ禍で一時的には仕方ない処置ですが、これが「ニューノーマル」になってしまってはいけません。また共に集うことをお互いに確信し、心をひとつにしましょう。

 

見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。

詩篇133

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