八王子バプテスト教会通信

2月19日のメッセージ 2023年2月19日

み言葉を託された者:イザヤ(9)

そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。アモツの子預言者イザヤは彼のところにきて言った、「主はこう仰せられます、『家の人に遺言をなさい。あなたは死にます。生きながらえることはできません』」。そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて主に祈って言った、「ああ主よ、わたしが真実と真心をもってあなたの前に歩み、あなたの目にかなうことをおこなったのをどうぞ思い起してください」。そしてヒゼキヤは激しく泣いた。イザヤがまだ中庭を出ないうちに主の言葉が彼に臨んだ、「引き返して、わたしの民の君ヒゼキヤに言いなさい、『あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられる、わたしはあなたの祈を聞き、あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやす。三日目にはあなたは主の宮に上るであろう。かつ、わたしはあなたのよわいを十五年増す。わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、わたしの名のため、またわたしのしもべダビデのためにこの町を守るであろう』」。そしてイザヤは言った、「干しいちじくのひとかたまりを持ってきて、それを腫物につけさせなさい。そうすれば直るでしょう」。ヒゼキヤはイザヤに言った、「主がわたしをいやされる事と、三日目にわたしが主の家に上ることについて、どんなしるしがありましょうか」。イザヤは言った、「主が約束されたことを行われることについては、主からこのしるしを得られるでしょう。すなわち日影が十度進むか、あるいは十度退くかです」。ヒゼキヤは答えた、「日影が十度進むことはたやすい事です。むしろ日影を十度退かせてください」。そこで預言者イザヤが主に呼ばわると、アハズの日時計の上に進んだ日影を、十度退かせられた。

II列王紀20:1〜11

 

これが、ヘゼキヤ王の人生最大の失敗とされています。

 

失敗?これが?今までの善行と祈りとが受け入れられて、奇跡的に癒された訳でしょう?しかも寿命の15年の延長をいただいた訳でしょう?しるしまでいただいている訳でしょう?これの一体どこが失敗だというのでしょうか?

 

確かに、この出来事だけを見れば、善行と信仰の勝利のように見えます。しかし、ヘゼキヤが15年長生きすることによって、そもそもの歴史の流れに狂いが生じ、主のご計画が変わってしまったのです。これが、国の未来に大きなマイナスをもたらしてしまうのです。

 

ヘゼキヤが生き延びなければ起こらなかった出来事はいくつもあるのでしょうが、その中で最も大きいのが息子マナセの誕生です。ヘゼキヤの死後に王位につい他のが12歳の時ですので、確実にこの延長の15年の中で生まれたのです。そして、マナセはユダの王たちの中で空前絶後の悪王だったのです。

 

マナセは主がイスラエルの人々の前から追い払われた国々の民の憎むべきおこないにならって、主の目の前に悪をおこなった。彼は父ヒゼキヤがこわした高き所を建て直し、またイスラエルの王アハブがしたようにバアルのために祭壇を築き、アシラ像を造り、かつ天の万象を拝んで、これに仕えた。また主の宮のうちに数個の祭壇を築いた。これは主が「わたしの名をエルサレムに置こう」と言われたその宮である。彼はまた主の宮の二つの庭に天の万象のために祭壇を築いた。またその子を火に焼いてささげ物とし、占いをし、魔術を行い、口寄せと魔法使を用い、主の目の前に多くの悪を行って、主の怒りを引き起した。彼はまたアシラの彫像を作って主の宮に置いた。主はこの宮についてダビデとその子ソロモンに言われたことがある、「わたしはこの宮と、わたしがイスラエルのすべての部族のうちから選んだエルサレムとに、わたしの名を永遠に置く。もし、彼らがわたしが命じたすべての事、およびわたしのしもべモーセが命じたすべての律法を守り行うならば、イスラエルの足を、わたしが彼らの先祖たちに与えた地から、重ねて迷い出させないであろう」。しかし彼らは聞きいれなかった。マナセが人々をいざなって悪を行ったことは、主がイスラエルの人々の前に滅ぼされた国々の民よりもはなはだしかった。そこで主はそのしもべである預言者たちによって言われた、「ユダの王マナセがこれらの憎むべき事を行い、彼の先にあったアモリびとの行ったすべての事よりも悪い事を行い、またその偶像をもってユダに罪を犯させたので、イスラエルの神、主はこう仰せられる、見よ、わたしはエルサレムとユダに災をくだそうとしている。これを聞く者は、その耳が二つながら鳴るであろう。わたしはサマリヤをはかった測りなわと、アハブの家に用いた下げ振りをエルサレムにほどこし、人が皿をぬぐい、これをぬぐって伏せるように、エルサレムをぬぐい去る。わたしは、わたしの嗣業の民の残りを捨て、彼らを敵の手に渡す。彼らはもろもろの敵のえじきとなり、略奪にあうであろう。これは彼らの先祖たちがエジプトを出た日から今日に至るまで、彼らがわたしの目の前に悪を行って、わたしを怒らせたためである」。マナセはまた主の目の前に悪を行って、ユダに罪を犯させたその罪のほかに、罪なき者の血を多く流して、エルサレムのこの果から、かの果にまで満たした。

II列王紀21:2〜16

 

こう言ったことは、一般には「運命のイタズラ」とか言われたりします。しかし、主にはご計画があり、私たちがうかがい知ることができるのはその本の一部であるということを、私たちは知っています。もし、ヘゼキヤが命乞いしないでそのまま終わっていた場合、歴史はどうなっていたでしょうか?こればかりは知りようがありません。主はそのことに関して何も言われていないからです。だから、自分の人生で過ぎ去ったことに関しても、What if?という「たられば」を唱えることは禁物なのです。

 

もちろん、ヘゼキヤも最初の宣告を受けた時、簡単に「御意に」と受け入れることは決してできず、それと相反する気持ちが強烈に吹き出しました。これまで、主の礼拝が正しく行われるように宗教改革に生涯を捧げ、国から偶像を追放し、神に喜ばれる民を復活させたのです。それなのに、なぜこのような仕打ち?なぜ自分がこのような目に遭わなければならないのか?祝福されるべき人間がいるとすれば、このヘゼキヤではないか?祝福されることがあっても呪われる筋合いはないのではないか?このような気持ちが出てくるのは、人間としては当然で自然なことです。

 

私たちの人生の中でも、たとえば大病をしたり、失職をしたり、大切な人との関係が断たれたりするなどして、人生が大きく狂ってしまうことがあるかもしれません。そのような時に、私たちはむやみに「このことを、無かったにしてください」というよりは、「このことを通して何をなさりたいのですか?」や「このことを通して主が栄光を受けられますように」と祈るべきでしょう。とても難しいことではありますが。

 

イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である」。イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。

ヨハネ9:1〜7

 

私たちは、自分の未来もわかりませんし、自分に訪れる状況も理解できなかったりします。苦難に出会った時、それに対して善処するしかないのです。呆然と立ちすくんでいたならば、貴重な時間ばかりが流れ去るのです。

 

風を警戒する者は種をまかない、雲を観測する者は刈ることをしない。あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあなたは、すべての事をなされる神のわざを知らない。朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。

伝道の書11:4〜6

 

そして全てにおいて、「主が栄光を受けられますように」の祈りを忘れずにいましょう。

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