八王子バプテスト教会通信

11月13日のメッセージ 2022年11月13日

み言葉を託された者:イザヤ(1)

あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」。呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、「あなたがたの神を見よ」と。見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。だれが、たなごころをもって海をはかり、指を伸ばして天をはかり、地のちりを枡に盛り、てんびんをもって、もろもろの山をはかり、はかりをもって、もろもろの丘をはかったか。だれが、主の霊を導き、その相談役となって主を教えたか。主はだれと相談して悟りを得たか。だれが主に公義の道を教え、知識を教え、悟りの道を示したか。見よ、もろもろの国民は、おけの一しずくのように、はかりの上のちりのように思われる。見よ、主は島々を、ほこりのようにあげられる。レバノンは、たきぎに足りない、またその獣は、燔祭に足りない。主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる。それで、あなたがたは神をだれとくらべ、どんな像と比較しようとするのか。偶像は細工人が鋳て造り、鍛冶が、金をもって、それをおおい、また、これがために銀の鎖を造る。貧しい者は、ささげ物として朽ちることのない木を選び、巧みな細工人を求めて、動くことのない像を立たせる。あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか。初めから、あなたがたに伝えられなかったか。地の基をおいた時から、あなたがたは悟らなかったか。主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ、これを住むべき天幕のように張り、また、もろもろの君を無きものとせられ、地のつかさたちを、むなしくされる。彼らは、かろうじて植えられ、かろうじてまかれ、その幹がかろうじて地に根をおろしたとき、神がその上を吹かれると、彼らは枯れて、わらのように、つむじ風にまき去られる。聖者は言われる、「それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか」。目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない。ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。

イザヤ40章

 

先週まで、しばらく小預言者を数名見てきましたが、今日からは、大預言者イザヤです。

 

「大預言者」、「小預言者」とは言っても、この区別は後に学者たちが、整理の都合上決めたもので、それぞれの預言者の偉さや体格の大きさなどを示すものではありません。大預言者も小預言者も、自分が置かれたところで主の御用にあたり、この地上では良い待遇を受けた者も劣悪な環境の置かれた者も、その務めが終わると栄光に迎えられました。

 

大預言者と小預言者の区別に用いられるのは、書の長さ、預言者が活躍した時間の長さ、そのテーマの多様性、社会的影響、などです。しかし、繰り返しになりますが、それは聖書そのものにおける区分ではなく、神学者が都合のために後から考え出した区分です。

 

とは言っても、イザヤ書はまさに「大」がついて然るべき書です。今日のオープニングの聖書朗読では、イザヤの40章を読みましたが、聖書を深く研究していない一般信徒でも、またクラシック音楽の愛好家でも、

「あっ、この箇所知っている」

と思わせる下りが数え切れないほどあります。ヘンデルの「メサイア」もイザヤ書を多く引用して書かれています。

 

また、イザヤ書は旧約聖書のどの書よりも多くの箇所でメシア来臨の記載があり、また自らの民のために懲らしめられるメシア、いわゆる「打たれたメシア」が鮮明に描かれています。そのため、イザヤ書は「第五の福音書」とも「聖書のダイジェスト版」とも呼ばれてきました。文学的にも、非常に力強いながらも繊細で美しいタッチが特徴で、読み始めるとどんどん引き摺り込まれていくという魅力もあります。

 

イザヤ書は伝統的には全巻がイザヤ一人で書いたとされてきましたが、最近では、前半はイザヤ本人が書き、後半は約100年後のヨシヤ王の時代に執筆・監修されたという見方が一般的になっています。詩篇は全てダビデによって書かれたわけではなく、また箴言も全てソロモンによって書かれたわけではないのと同様に、イザヤ書も全てイザヤによって書かれたわけではないというのです。その理由としては、後半ではイザヤの名前が使われなくなり、前半では使われなかった用語がいくつか使われているからです。しかし、最近では、この様な問題も持ち上がっています。最新の分析によると、名前と用語の問題を考慮しなかった場合、前半と後半とが恐ろしいほどの統一性を持っているのです。そこで今問題になっているのは、100年もの時を経てのこの統一性をどう説明するのか、ということです。私たちとしては、どちらであれ、主の御言葉を託された者が残したもののため、ありがたくいただきます。

 

さて、イザヤ本人は紀元前8世紀のユダで生まれ、ユダで活躍しました。立場的には、ユダのアマジヤ王の甥、つまり王室のインサイダーでした。礼節をわきまえ、教養もあり、国王の前に立つことも苦にならない人物でした。活動の期間も、短くみても40年、最長で64年年にわたります。イザヤ書1:1にはイザヤが4人の王の世に預言したと記されていますが、最後はヘゼキア王の息子、あの邪悪なマナセに殺されたと見られていますので、実際には5人の王の世を見ていることになります。紀元前722年の、アッシリアによる北イスラエルの首都サマリヤの破壊と北の部族の離散も目撃しています。

 

イザヤ書のテーマは壮大です。ユダの処罰と癒し、復興、犠牲としてのメシア、人類の救済、新しい天と新しい地です。これだけ広壮たるものから私が今日の魂の糧を得られるのだろうか、と考える必要はありません。スケールは確かに大きいですが、随所に慰めと励ましの言葉が散りばめられています。これからしばらく、クリスマスの礼拝も含め、イザヤ書を学んでいきたいと思います。

 

「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。耳を傾け、わたしにきて聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる。わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。見よ、わたしは彼を立てて、もろもろの民への証人とし、また、もろもろの民の君とし、命令する者とした。見よ、あなたは知らない国民を招く、あなたを知らない国民はあなたのもとに走ってくる。これはあなたの神、主、イスラエルの聖者のゆえであり、主があなたに光栄を与えられたからである。あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。

イザヤ55:1〜6

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