八王子バプテスト教会通信

6月6日のメッセージ 2021年6月6日

「不安の弊害」

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。

ローマ12:1〜8

 

ここまで数週間は、私たちはいつでも自分の不安を神に打ち明けて、平安をいただくことができます、ということを考えてきました。どんなに周囲が不安な要素だらけでも、私たちは心の平安を持つことができるのです。

 

今日は、この不安の問題を逆の方向から考えてみたいと思います。もし、私たちが不安を持ちながらも、それを主に打ち明けて平安を頂かなければ、どうなるのか?

 

そんなことをするクリスチャンはいないだろう、と思われるかもしれません。なぜなら、苦しいのに助けを求めない人はいないでしょう?すがれば楽になるとわかっていながら、自分一人で背負い込む人はいないでしょう?そんな声が聞こえてきそうです。しかし、本当にそうでしょうか?

 

私が十代だった頃、心の内を親に相談した記憶がありません。そこそこ親子の関係が良かった方だとは思いますが、悩みを相談した記憶がありません。それとは別に、例えば作業の具体的な進め方、バイクの修理、木工作業のコツ、料理の手順など、色々聞いて知恵を得ました。しかし、自分の心の内を明かすような相談をしませんでした。理由はいろいろあります。例えば、歳が離れていて、自分の考え方がわかってもらいないのではないか。親が育った時代や環境が自分のそれとは違っていて、思考に共通点が少ないのではないか。話したところから余計なところを詮索されて、藪蛇になるのではないか。いろいろあったように思えます。

 

私たちも、神に対して同じような気持ちを抱くことはないでしょうか?いや、主がわからない悩みは何もない、どのような悩みにも安らぎを与えてくださる、そのようなことをよくわかっています。しかし、これを打ち明ければ藪蛇になるのではないか、というのはどうでしょう。自分では薄々気づいている、自分の譲りたくない部分。それを譲りなさい、捧げなさいと言われたら嫌だな、という自分はいないでしょうか?実はここに不安の本質のひとつがあり、それと同時に不安の弊害もあるのです。

 

その他にも、主にゆだねていた自分の人生の制御を、パニックになって取り戻そうとするケースもあるでしょう。水の上を歩いていて、沈みかけたペテロのように。主の価値観から、自分の価値観にとっさに戻ってしまうのです。

 

二週前の礼拝で、不安のひとつの根本的な原因は、私たちの肉の保身にあることを考えました。自分で自分の身を、あるいは自分の自我を、本能的に、とっさに守ろうとするのです。そうすると、何か自分を守ろうとして苦しんで悩んでいる時も、それを主にゆだねるのが嫌だから、その悩み、不安を抱え続けてしまうクリスチャンも少なくないのです。完全にゆだねていないのです。

 

さて、今日のテーマは「不安の弊害」です。不安は、本人を苦しくしますが、それ以上の弊害があるのでしょうか?実は、甚大な被害があるのです。本人の人生においても弊害がありますが、私たちの主イェスキリストとその教会においても、大きな弊害があります。それは何かというと、キリストの教会が何でできているのかを考えるとわかります。

 

この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。

Iペテロ2:5

 

キリストの教会は、一人一人が自らを生きた石、キリストの体の「建材」として捧げることによって成っています。悪魔はこのことをよくわかっているので、私たちを不安にして、安心して自らを捧げられられないような状況にすることで、キリストの教会に対する攻撃を図っているのです。

 

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。

Iペテロ5:8

 

以前にも取り上げたこのテーマは、悪魔をオスのライオンに例えたものです。メスのライオンは、チームを組んで上手に狩りをしますが、オスはそれができません。メスの群の用心棒に雇われたオスはメスたちが狩ってきたものを食べることができますが、このような立場にありつくのはオス全体の1割程度です。残りのオスは、狩が下手なので、別の作戦を使って獲物を得ます。サバンナや森には、上手に隠れている動物たちがたくさんいます。隠れてさえいればライオンには見つからないのですが、ライオンが大声で吠えて歩き回ります。そうすると、それを聞いた動物は「隠れていれば大丈夫」という知恵に「逃げ出そう」という本能が打ち勝ってしまい、飛び出して狩られるのです。

 

悪魔は、私たちの身体に手を出すことができません。私たちを直接攻撃することはできません。しかし、私たちの気持ちや感情に働きかけることはできます。そのため、私たちは自分の時間や行動を主にゆだねるだけではなく、私たちの気持ちや感情も主にゆだねなければならないのです。自分の気持ちや感情をベースとして生きようとすると、簡単に悪魔の手下になってしまいます。

 

また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。

ローマ6:13

 

日本には、「盗人(ぬすっと)の提灯持ち」ということわざ(慣用句)があります。どういうことかというと、提灯を持つ行為自体、全く悪くも何もありません。しかし、提灯を持つことで、盗みを働いている人の手助けをしたのならば、その提灯を持つ行為そのもの、盗みの罪に等しいものだ、ということです。だから、私たちが自らを生きた石、生きた聖なる供え物として捧げることができないような状態に自分を置いているならば、私たちは「悪魔の提灯持ち」にさえなってしまうのです。

 

私たちにとって、私たちの「気持ち」は究極にプライベートな部分でしょう。しかし、それを固守することによって悪魔が自由に私たちを扱えるのであれば、それも主にゆだねない訳にはいきません。私たちの心の平安のためにの、私たちの証しと周囲の人々のためにも、そして主のみ体のためにも。

 

こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない。

エペソ4:14〜27

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