八王子バプテスト教会通信

3月5日のメッセージ 2023年3月5日

み言葉を託された者:イザヤ(11)

ヤコブの家よ、これを聞け。あなたがたはイスラエルの名をもってとなえられ、ユダの腰から出、主の名によって誓い、イスラエルの神をとなえるけれども、真実をもってせず、正義をもってしない。彼らはみずから聖なる都のものととなえ、イスラエルの神に寄り頼む。その名は万軍の主という。「わたしはさきに成った事を、いにしえから告げた。わたしは口から出して彼らに知らせた。わたしは、にわかにこの事を行い、そして成った。わたしはあなたが、かたくなで、その首は鉄の筋、その額は青銅であることを知るゆえに、いにしえから、かの事をあなたに告げ、その成らないさきに、これをあなたに聞かせた。そうでなければ、あなたは言うだろう、『わが偶像がこれをしたのだ、わが刻んだ像と、鋳た像がこれを命じたのだ』と。あなたはすでに聞いた、すべてこれが成ったことを見よ。あなたがたはこれを宣べ伝えないのか。わたしは今から新しい事、あなたがまだ知らない隠れた事をあなたに聞かせよう。これらの事はいま創造されたので、いにしえからあったのではない。この日以前には、あなたはこれを聞かなかった。そうでなければ、あなたは言うだろう、『見よ、わたしはこれを知っていた』と。あなたはこれを聞くこともなく、知ることもなく、あなたの耳は、いにしえから開かれなかった。わたしはあなたが全く不信実で、生れながら反逆者ととなえられたことを知っていたからである。わが名のために、わたしは怒りをおそくする。わが誉のために、わたしはこれをおさえて、あなたを断ち滅ぼすことをしない。見よ、わたしはあなたを練った。しかし銀のようにではなくて、苦しみの炉をもってあなたを試みた。わたしは自分のために、自分のためにこれを行う。どうしてわが名を汚させることができよう。わたしはわが栄光をほかの者に与えることをしない。ヤコブよ、わたしの召したイスラエルよ、わたしに聞け。わたしはそれだ、わたしは初めであり、わたしはまた終りである。わが手は地の基をすえ、わが右の手は天をのべた。わたしが呼ぶと、彼らはもろともに立つ。あなたがたは皆集まって聞け。彼らのうち、だれがこれらの事を告げたか。主の愛せられる彼は主のみこころをバビロンに行い、その腕はカルデヤびとの上に臨む。語ったのは、ただわたしであって、わたしは彼を召した。わたしは彼をこさせた。彼はその道に栄える。あなたがたはわたしに近寄って、これを聞け。わたしは初めから、ひそかに語らなかった。それが成った時から、わたしはそこにいたのだ」。いま主なる神は、わたしとその霊とをつかわされた。あなたのあがない主、イスラエルの聖者、主はこう言われる、「わたしはあなたの神、主である。わたしは、あなたの利益のために、あなたを教え、あなたを導いて、その行くべき道に行かせる。どうか、あなたはわたしの戒めに聞き従うように。そうすれば、あなたの平安は川のように、あなたの義は海の波のようになり、あなたのすえは砂のように、あなたの子孫は砂粒のようになって、その名はわが前から断たれることなく、滅ぼされることはない」。あなたがたはバビロンから出、カルデヤからのがれよ。喜びの声をもってこれをのべ聞かせ、地の果にまで語り伝え、「主はそのしもべヤコブをあがなわれた」と言え。主が彼らを導いて、さばくを通らせられたとき、彼らは、かわいたことがなかった。主は彼らのために岩から水を流れさせ、また岩を裂かれると、水がほとばしり出た。主は言われた、「悪い者には平安がない」と。

イザヤ48章

 

先週はヘゼキヤの残念な終わり方、そしてバビロン捕囚の宣告を見ました。イザヤ署の中にはバビロンに対する裁きの言葉も多く書かれているのですが、ここには、まだバビロンに連れ去られていない時代から、バビロンからの帰還が記されています。

 

北のイスラエルは、イザヤの見ている前で連行され、二度とその地に戻ることはありませんでした。いわゆる、イスラエルの「失われた10部族」です。しかし、この表現には大きな問題があります。それは、「失われた10部族」と言われる10部族は失われたことが全くないのです。聖地に帰ることはなかったにしても、そのアイデンティティが失われることはありませんでした。だからた、アメリカ人が「失われた10部族」の末裔であるとか、日本人が「失われた10部族」の末裔であるというような話は、全くのナンセンスなのです。

 

アッシリアによるイスラエルの強制移住や、ユダヤのバビロン捕囚は、一昼夜にして行われたことではありません。数年間をかけて展開されたプロセスです。そのため、先見の目を持ち、経済的余裕がある人の多くは早々と脱出して安全な地に身を寄せたのです。良い例が、インドのケララやコーチンです。今でも大勢のユダヤ人が暮らしています。

 

聖書の中にも、その10部族が失われたという発想はなく、ヤコブの手紙の冒頭にもこう書いてあります。

 

神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、離散している十二部族の人々へ、あいさつをおくる。

ヤコブ1:1

 

ヤコブが書かれた時代には、ユダヤ戦争の勃発前でまだユダヤは存在していましたが、機転のきく人の多くは脱出していたでしょう。彼らは自分たちがユダヤ人であるというアイデンティティを失わなかっただけではなく、自分たちの部族のアイデンティティも失いませんでした。その後世界中に離散しましたが、今なお自分たちの部族のアイデンティティを持ち続けています。エチオピアには古代からのユダヤ人たちがいますが、ダンの部族の末裔であるというアイデンティティを持っています。

 

これだけわかっているならば、なぜ離散しているのでしょうか?その答えは聖書にあります。

 

見よ、主なる神の目はこの罪を犯した国の上に注がれている。わたしはこれを地のおもてから断ち滅ぼす。しかし、わたしはヤコブの家をことごとくは滅ぼさない」と主は言われる。「見よ、わたしは命じて、人がふるいで物をふるうように、わたしはイスラエルの家を万国民のうちでふるう。ひと粒も地に落ちることはない。わが民の罪びと、すなわち『災はわれわれに近づかない、われわれに臨まない』と言う者どもはみな、つるぎで殺される。その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる。

アモス9:8〜11

 

イスラエルは、主が良しとされるまで、万国の中でふるいにかけ続けられなければなりません。現在のイスラエル国家のように人為的にそれを試みても、それは主のイスラエルではありません。では、いつになればイスラエルは完全にあがなわれるのでしょうか?それは、再臨の時です。反キリストの元で壮絶な迫害に逢い、血で衣を清めて迎え入れられるのです。そして、その地位は御国の中では不動のものとなりますが、支配者としてではありません。

 

イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。

マタイ19:28

 

そして、神の民としての地位を示すため、新しいエルサレムにおいても、12の門に12部族の名が記されるのです。主は、何がなんでも、ご自分の民を清めてあがなうのです。しかし、それには多くの苦しみと苦痛が伴います。今日の最大のポイントは、その苦しみと苦痛は、本来は全く不必要だったということです。

 

私たちも、この世の中で生きている限りは、苦しみと苦痛から逃れることはあり得ません。主の懲らしめのムチも常にあるでしょう。しかし、私たちが清められるのは悪い行いを清める精錬の炉ではなく、主の血によって清められたものとしての、清い心から来る良い行いによる清めであるようにしたいものです。

 

どうか、あなたはわたしの戒めに聞き従うように。そうすれば、あなたの平安は川のように、あなたの義は海の波のようになり、あなたのすえは砂のように、あなたの子孫は砂粒のようになって、その名はわが前から断たれることなく、滅ぼされることはない」。

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