八王子バプテスト教会通信

5月30日のメッセージ 2021年5月30日

「安心の源(3)」

悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。

詩篇1

 

ここ2週は、「安心の源」といいながら、自殺という非常に重いテーマを取り上げてきました。今週は別の角度から、主から安心をいただくことについて考えたいと思います。

 

ダビデの詩篇第1篇に、「流れのほとりに植えられた木」が描かれています。川の流れは、恵みと安らぎを表しています。何と穏やかで平安な光景でしょう!このシーンは、アメリカの教会のバプテスマ・プールに描かれている背景画として大変有名なモチーフです。

 

絵画にはあまり反映されていないのですが、この詩篇に描かれているのは、複数の流れの合流点に植っている木です。そうすると、仮に片側の川が枯れても、もう一本の川から水を受けることができます。なんとも豊かな信仰生活ではありませんか!うらやましい限り、と思ってしまいますね。

 

しかし、この詩篇を書いたダビデの人生は、決して順風満帆ではなく、まさに波乱万丈でした。ダビデは、人生は決して万事順調ではない、信仰を持っている者も理不尽に虐げられることを、誰よりもよくわかっていました。ダビデの詩篇も、豊かなな日常に対する感謝を描いたものよりも、悲痛な叫びを叩きつけたようなものが多いのです。では、この「流れのほとりに植えられた木」の安定というのは、一体なんなのでしょうか?

 

この複数の流れの合流点に植っている木、実は、川が両方とも干上がってしまうことがあるのです。その時、この木はどうするのでしょうか?実は川というのは、地表を流れているだけではありません。川底の下には、伏流水が流れています。地表の川が干上がっても、伏流水はそう簡単にはなくなりません。そして量がかなり減っても、そこに根を下ろす生命を養い続けることができるのです。仮に片方の川の伏流水が絶えても、もう片方から、乾季を乗り切るに必要な水分を得る事ができるのです。

 

ただし、ひとつ問題があります。その伏流水とは、川底のすぐ下を流れているとは限りません。かなり深いところにあることも多いのです。そうすると、何もしなくても繁栄しているかのように様に見えるこの木も、その水脈にありつくようになるまで、大変な時期を経てきた事がわかります。

 

アフリカのカラハリ砂漠に、所々、目を引く木が生えています。周り一帯が茶色の砂漠の中に、ポツンと、青々とした巨木がそびえ立っています。ボスキア・アルビトルンカ、別名「羊飼いの木」ともいう常緑樹です。なぜ、そのように過酷な環境にいながら、年中青々としている事ができるのでしょうか?答えは、その根にあります。木が地上10メートルの高さにそびえているならば、その根は地中70メートルの深さまで伸びているのです。そこから、雨季・乾季に関係無く豊かな養分を得て、自らの生命をつなぐだけではなく、周囲の生態系にも、花(糖分が豊富)や葉(タンパク質が非常に豊富)、そして実(人間の食料にも香辛料にもなる)を通して、水の恵みを豊に分かち合います。さらに、水を汲み上げて蒸発させるため、気化熱で周囲の厳しい暑さも和らげます。周囲の温度が50°を超える時でも、この木の木陰は20°台前半と言われます。これこそ、クリスチャンのあるべき姿ではないのでしょうか?どうすれば私もそのような木になる事ができるのでしょうか?

 

実際、この木は、苗木の時から根が70メートルもあったわけではありません。ただ、苗木の時から、根を伸ばし続けたのです。水を目指して。雨季に周りが湧き立っても、乾季に周りが荒涼とした大地となっても、黙々と水を目指して根を伸ばし続けたのです。そして、今ではその恩恵を生きとし生けるもの全てに分け与える事ができるのです。

 

イェスは、サマリヤの井戸で出会った女性に言いました。

わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。

ヨハネ4:14

 

しかし、その水を飲んだ事があるクリスチャンでも、周囲に対してそのような存在になっている人はそうは多くはないのが実情ではないのでしょうか?どういう事でしょうか?それは、多くのクリスチャンは、主が恵み深いことを味わい知って、いつまでもその恵みにあずかろうと追い求めたのではなく、主が恵み深いことを味わい知って安心して、自分中心の生活に帰って行ってしまったのです。そうすると、根が伸びず、いざというときには水に根が届かないのです。ちょうど、石地に落ちた種のように。

 

ヨブは、全てを失った時、非常に素晴らしい言葉を発しました。

わたしは裸で母の胎を出た。

また裸でかしこに帰ろう。

主が与え、主が取られたのだ。

主のみ名はほむべきかな。

ヨブ1:21

 

しかし、ヨブのその高尚な意思は、長くは続きませんでした。友人たちとの問答の中で、神に対して疑念を抱き、神に対しての抗議を口にするようにします。ヨブはそれまで、あまりにも祝福され過ぎてきたのです。悪魔が「不公平だ」と神に陳情するまでに神に守られていたのです。根は全く張れていませんでした。

 

主の恵みは豊かにありますが、私たちが思い描くところに、私たちが思い描く形で存在しているとは限りません。それは、私たちが私たちのために思い描く人生を豊かにするためにあるのではなく、主が私たちのために思い描く人生を豊かにするためにあるからです。パウロはこう述べています。

 

そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

IIコリント12:7〜10

 

肉において誇る権利がある人間があるとすれば、それは自分だ、とパウロも述べています。しかし、あえてそれをしないように、主からひとつの「とげ」が与えられたと言っています。それがなんであるのかは諸説ありますが、パウロの視力であるとの見方が大勢です。パウロがダマスコに向かう道でキリストと出会い、強い光で一時目が見えなくなります。その後、アナニヤに祈って手を置いてもらうと、目からうろこのようなものが落ちて(「眼から鱗」の語源)また見えるようになりましたが、その一件で視力が著しく低下したようで、それ以降は大好きな勉強も執筆もできません。「パウロ書簡」と呼ばれる、新約聖書の半分近くを占める数の書簡をパウロが書いていますが、実は全て書記に書かせていたようです。時には、締めの挨拶を自分で書いて。

 

ごらんなさい。わたし自身いま筆をとって、こんなに大きい字で、あなたがたに書いていることを。

ガラテヤ6:11

 

その結果、パウロは自分の肉の強さに依存する事ができず、主の恵みに頼らざるを得ず、そうすると私は強い、と言っているのです。

 

時に、私たちはこの世の波風の中で、主の恵みはどこにあるのだろう、と不安になってしまいます。それは、主の恵みが私の肉の日常をサポートするために存在するはずだ、と思ってしまっているからかもしれません。意識的にはそう考えていなくても、深層心理ではそのように思ってしまうのでしょう。しかし、それは主の意図されているものと違うはずです。

 

私たち自身は、年間を通して豊かな流れと雨水に恵まれ、青々としている木になりたいと思うのが自然体です。しかし、私たちに対する主の期待は、荒涼とした砂漠の中においても人々に恵みを分かち与える存在になる事であるとすれば、まだまだ根を伸ばさなければならないでしょう。

 

コロナ禍が早く終わって欲しい、ワクチンが行き届いて欲しい、早く景気が元に戻って欲しい、当然誰もがそう思うでしょう。しかし、私たちはそれまで首をすぼめて待っているわけにはいきません。そうすると、コロナ禍が終わった時には、私たちはどれだけ根を伸ばす事ができたのか?が問われることになります。今までは世の中の物に、肉体的にも精神的にも依存していたところを、どこまで主に信頼する事ができるようになったのか?私たちが最も「主に見捨てられた」と思う瞬間こそ、主が最も私たちを気にかけて成長を促してくださっている瞬間なのかもしれません。

 

おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ。

エレミヤ17:7〜8

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