八王子バプテスト教会通信

12月12日のメッセージ 2021年12月12日

クリスマスに向けて

 

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

ヨハネ1:1〜4、14

 

今日は、クリスマスに向けて、「かたち」ということについて話したいと思います。

ヨハネは、イェスのことを「言」(ことば)と呼んでいます。この言葉はギリシャ語ではΛόγος(Logos、ロゴス)です。ロゴスという概念は、実に面白いものです。人間には、頭の中にいろいろな考えや感情がありますが、それをテレパシーで人に飛ばして共有するということはできません。頭や心の中にあるモヤモヤとしたものを人に伝えるときには、「言葉」という形にして伝えます。それが喋るのであっても書くのであっても、私たちは「言葉」という「かたち」を使って、形にならないものを形にして伝え合っているのです。

 

しかし、私たちの言葉は完全ではありません。言葉不足で誤解が生じたり、そもそも私たちの使っている言葉の限界ゆえにコミュニケーションが十分取れなかったりします。私も言葉で失敗した回数は数知れません。ごく稀に、私たちがなかなか言葉にできないような気持ちや思いを、見事に言葉にして代弁してくれる人がいます。私たちは、そのような人のことを「詩人」と呼びます。

 

イェスは、あるものを現すために、私たちと同じ形でこの世に生まれてきて下さいました。それは、私たちが見ることも触ることもできない、父の御姿です。

 

ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。

ヨハネ14:8〜9

 

そしてそれがイェスの栄光の中に現された時、それは人々がそれまで思い描いていたのとは大きく異なるものでした。人々が思い描いていた厳しくてエゴイスティックな父の姿ではなく、ひとり子に現された、めぐみとまこととに満ちた姿でした。

 

さて、その時代から千年以上の地の時代に飛びます。ここで、広義で言えばのキリスト教から、クリスマスに関するある「かたち」が誕生します。クリスマスに関する「かたち」というのは、なんでしょうか?イメージするのは、クリスマスツリー、リース、クリスマスケーキ、トナカイにひかれてやってくるサンタクロースなどかも知れませんが、これらはいずれもキリスト教からではなく、偶像崇拝の異教から生まれたものです。

 

これに対して、「キリスト教」と言われるものの中から発生したのが、「降誕場面」と呼ばれる、イェスの誕生の場面を人形で表現したものです。馬小屋の模型にマリヤ、ヨセフ、赤子イェスなどの人形を飾るものです。日本ではあまり馴染みはなく、皆様はミニチュアでしかご覧になったことはないかも知れませんが、欧米では広場に等身大かそれに近いサイズで飾るのが一般的です。今のアメリカでは政教分離の観点から少なくなりましたが、一昔前までは町の広場に飾られているのが一般的でした。

 

この「降誕場面」を考案したのが、あのアッシジのフランシスコです。彼は最初から最後まで破天荒な人物で、何から何まで、当時のカトリック教会がよしとするものではなく、自分が正しいと思うこと型破り的に実践しました。「降誕場面」を思いついたのも、字の読み書きができない貧しい人々に福音のメッセージを伝えるための手法としてでした。貧民に福音を伝えるというのは、あまりにも当たり前のことと思われるでしょうが、当時のカトリック教会にはそのような発想がなく、ミサに参加しなければ罰金刑のような発想しかありませんでした。ミサに参加とは言っても、貧しい人は教会のベンチに座ることも許されず、後方のロープで仕切られた空間に立っているだけでしたが。その貧民に対して、フランシスコは彼らの生活の場に福音のメッセージを携えて福祉活動を行うと決めました。

 

先にも述べたとおり、これは当時のカトリック教会の中には全くない発想でした。しかし、この時代のカトリック教会は、キリスト教の痕跡すらほとんど残っていませんでした。西暦251年に、あまりにもキリスト教の基本から外れてしまったとして、他の緒教会から「絶交宣言」(破門に相当)を受けておきながらも、ローマ政府との結託により「正」を名称に持つ地位につき、正当なキリスト教徒を弾圧、迫害するようになっていました。最終的に、その元で殉教したクリスチャンの数が全世界で5000万人にのぼりました。これが、中世のいわゆる「暗黒時代」です。

 

地元の教会関係者に相談しても許可が取れないと判断したフランシスコは、思い切った行動に出ました。ローマ教皇に直談判です。当時のローマ教皇もフランシスコに会うこと自体もためらっていた様ですが、実際に会ってみるとその人柄に魅了され、その熱意に押されて許可を出します。こうして、「降誕場面」がイタリアから始まって全世界に広がっていきます。しかし、フランシスコ亡き後、人形たちが一人歩きしてしまう様になります。実際に人形が歩くということではなく、その人形を使った福音のメッセージが人々の間で色々と変化して、例えばイェスの誕生から2年後にイエスを訪れたはずの東方の博士たちがイェスの誕生の馬小屋にやってくるなど、おかしなストーリーが乱立する様になります。みんな聖書を読めば良いのはないかと思われるかも知れませんが、当時は聖書を読むことも所持することも、カトリック教会から硬く禁じられていたのです。カトリック教会の教えがどれだけ聖書の教えから離れているかを悟られないためです。そのため、グーテンブルグが印刷機を発明して、聖書を大量に印刷すると、それをほぼ全て広場に集めて焼き払ってしまったのです。

 

さて、アッシジのフランシスコの活動により、「かたち」によって福音を伝えることの大切さが見直されました。例えば、東欧の教会には、外壁にイェスの生涯の絵巻が描かれ、村人たちがいつでも子供たちを連れて聖書の話をすることができる様になっています。ただ、その「かたち」の効力は、伝える側の理解の範囲に限定されたものではあります。

 

この様に、聖書の御言葉を頭と心に留めた一人一人が、自分の生き方の中で、福音を人々に伝えることが大事なのです。個人としても、クリスチャン家庭であれば家族としても、教会としても、また同じ教会に属していなくてもクリスチャンのコミュニティーとしても、自らの生き方に体現していくことが重要なのです。イェスが父の真の姿を伝える「言」、すなわち「かたち」として約2000年前にこの世に来られました。私たちは今日も、イェスの「かたち」として日々の生活を通して、また福音のメッセージを通して、父のなさろうとしていることと、救いのメッセージを伝え続けているのです。今年のクリスマスはこの任務も心に、祝いましょう。

 

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

IIコリント3:18

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