八王子バプテスト教会通信

9月19日のメッセージ 2021年9月19日

み言葉を託された者:モーセ(6)

 

パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、かつモーセに言った、「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」。モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。主はモーセに言われた、「あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。わたしがエジプトびとの心をかたくなにするから、彼らはそのあとを追ってはいるであろう。こうしてわたしはパロとそのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破って誉を得よう。わたしがパロとその戦車とその騎兵とを打ち破って誉を得るとき、エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」。このとき、イスラエルの部隊の前に行く神の使は移って彼らのうしろに行った。雲の柱も彼らの前から移って彼らのうしろに立ち、エジプトびとの部隊とイスラエルびとの部隊との間にきたので、そこに雲とやみがあり夜もすがら、かれとこれと近づくことなく、夜がすぎた。モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行ったが、水は彼らの右と左に、かきとなった。エジプトびとは追ってきて、パロのすべての馬と戦車と騎兵とは、彼らのあとについて海の中にはいった。暁の更に、主は火と雲の柱のうちからエジプトびとの軍勢を見おろして、エジプトびとの軍勢を乱し、その戦車の輪をきしらせて、進むのに重くされたので、エジプトびとは言った、「われわれはイスラエルを離れて逃げよう。主が彼らのためにエジプトびとと戦う」。そのとき主はモーセに言われた、「あなたの手を海の上にさし伸べて、水をエジプトびとと、その戦車と騎兵との上に流れ返らせなさい」。モーセが手を海の上にさし伸べると、夜明けになって海はいつもの流れに返り、エジプトびとはこれにむかって逃げたが、主はエジプトびとを海の中に投げ込まれた。水は流れ返り、イスラエルのあとを追って海にはいった戦車と騎兵およびパロのすべての軍勢をおおい、ひとりも残らなかった。しかし、イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行ったが、水は彼らの右と左に、かきとなった。このように、主はこの日イスラエルをエジプトびとの手から救われた。イスラエルはエジプトびとが海べに死んでいるのを見た。イスラエルはまた、主がエジプトびとに行われた大いなるみわざを見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセとを信じた。

出エジプト14:10〜31

 

いよいよエジプトから脱出です。ここで力を発揮するのが、モーセの杖!最初に蛇に変身したあの杖!という様なイメージを映画「十戒」から受けるのですが、モーセの杖は魔法の杖でもなければ、モーセの力の凄さを示すものでもありません。モーセが神から受けた権限を表すものでした。

 

古代から、支配者の権限というものは特殊な杖や棒によって表現されていました。エステルがアハシュエロス王に謁見を希望したときに、王が差し出すか差し出さないかで運命が決まる、あの笏(しゃく)です。日本では平安貴族や神社の神職が平たい板の様なものを笏として持っていますが、これは趣旨が少々違います。中東やヨーロッパでは、古代から支配者たちが自分の権限が神からいただいた絶対的なものであり、これを代々受け継ぐということの象徴として王笏を持っていました。日本の天皇の「三種の神器」に少し似た性質を持つものでした。

 

だから、ヤコブは死際に息子たちにその後のことを予言して伝えたとき、「ユダから杖(王笏)が離れることはない」と言ったのです(創世記49章)。その杖は実在する物体ではありませんでしたが、ダビデ、そしてイェスへと伝えられていったのです。

 

モーセはこの杖を使って、様々な不思議と奇跡を行い、またその同じ杖を持って大失敗をもしました。しかし、出エジプト記の中で杖を持っていたのはモーセだけではありませんでした。そして、その杖は、やはり権限を象徴するものでした。反逆者コラ達をはじめ、モーセとアロンの指導に対して不平不満を言う者が後を絶たなくなったとき、主はこの杖をもって白黒をはっきりさせました。

 

主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に告げて、彼らのうちから、おのおのの父祖の家にしたがって、つえ一本ずつを取りなさい。すなわち、そのすべてのつかさたちから、父祖の家にしたがって、つえ十二本を取り、その人々の名を、おのおのそのつえに書きしるし、レビのつえにはアロンの名を書きしるしなさい。父祖の家のかしらは、おのおののつえ一本を出すのだからである。そして、これらのつえを、わたしがあなたがたに会う会見の幕屋の中の、あかしの箱の前に置きなさい。わたしの選んだ人のつえには、芽が出るであろう。こうして、わたしはイスラエルの人々が、あなたがたにむかって、つぶやくのをやめさせるであろう」。モーセが、このようにイスラエルの人々に語ったので、つかさたちはみな、その父祖の家にしたがって、おのおの、つえ一本ずつを彼に渡した。そのつえは合わせて十二本。アロンのつえも、そのつえのうちにあった。モーセは、それらのつえを、あかしの幕屋の中の、主の前に置いた。その翌日、モーセが、あかしの幕屋にはいって見ると、レビの家のために出したアロンのつえは芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、あめんどうの実を結んでいた。モーセがそれらのつえを、ことごとく主の前から、イスラエルのすべての人の所に持ち出したので、彼らは見て、おのおの自分のつえを取った。主はモーセに言われた、「アロンのつえを、あかしの箱の前に持ち帰り、そこに保存して、そむく者どものために、しるしとしなさい。こうして、彼らのわたしに対するつぶやきをやめさせ、彼らの死ぬのをまぬかれさせなければならない」。

民数記17:1〜10

 

この様にして、アロンの杖は国民の資産となり、契約の箱に保存されました。少なくともバビロン捕囚の時までは民と共にあったのです。ユダヤ教の伝説によれば、このアロンの杖はサウルから始まり歴代の国王によって笏として使われ、エルサレムがバビロン国王ネブカデネザルに焼き討ちにされた時、奇跡的に消えたと言うのです。そして、メシア来らんときには、メシアがこれを持って異邦人を治めると言うのです。

 

最後の方の話は色々と眉唾ものですが(メシアはアロン系の大祭司ではなくメルキゼデク系の大祭司)、少なくともアロンの杖が民と共にあり、民に愛されていたことがよくわかります。

 

一方、モーセの杖はどうなったのでしょうか?後日のテーマですが、モーセは岩(「キリストに他ならなかった」岩)を二度打つと言う失敗(罪)を犯したため、約束された地に入ることが許されませんでした。その杖は、民と共にヨルダン川を渡ることはなかったのです。アロンの杖と比較すると、寂しい終わり方ですが、アロンとの比較で寂しいのはこの点だけではありません。

 

イスラエル・ユダヤの中で宮で仕えることができるのはレビの子孫だけですが、その中で祭司になることができるのはアロンの子孫だけでした。その末裔の中には、バプテスマのヨハネもいます。一方、モーセの子孫はどうなったのでしょうか?

 

ゲルショムとエリエゼルのその後に関しては、多くは記録されていません。しかし、その子供達、つまりモーセの孫達は、その後のイスラエルの偶像崇拝に関わっています。ダンの部族が偶像崇拝を始めるときに、その祭司を努めたのがモーセの孫達でした。アロンの子孫ではないのでユダヤ教の祭司になることはできませんが、偶像崇拝の祭司にはなれます。でも、だめですね。

 

他方、アロンの祭司は代々民のために祭司、大祭司となりました。全員が良い祭司だったわけではなく、悪い祭司もいました。イェスを違法な裁判で十字架につけさせた大祭司カヤパも、アロンの子孫に他ならなかったのです。だから、子供向けのおとぎ噺の様に、「こっちは全員○」「あっちは全員×」の様にはならないのです。

 

そしてモーセは、私たちに対する戒めとして、約束された地に入ることはできませんでしたが、これは「天国に入れずに地獄に落ちる」ことを意味しているのではありません。これは御国において、都の新しいエルサレムに入れる人と入れない人がいることを象徴しているのです。新しいエルサレムには、どの様な城壁があるのか、ヨハネは黙示録で具体的に記録しています。壁があるということは、「中」と「外」とではっきりとした「区別」があるということなのです。

 

ではモーセは、新しいエルサレムに入れないのでしょうか?どうやら、そういうわけではなく、そのメッセージを伝えるために私たちのために戒めとしてその出来事が書かれているのです。主は完璧な人材のみをご自分のために用いられるのではなく、将来、とてつもない失敗をすることを重々ご存知の上であっても私たちを用いられるのです。主にとっては、モーセは永遠に「我が忠実なしもべ」なのです。そして、モーセがその大きな失敗にもかかわらず栄光を受けていることを知ることができる箇所が、聖書にあるのです。

 

六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。

マタイ17:1〜5

 

モーセは律法の総代表、エリヤは預言者の総代表です。確かに栄光を受けています。私たちは彼らから学べることは多くありますが、彼らを真似れば良いということではありません。彼らはその特殊な時代に、与えられた任務を試行錯誤を繰り返しながら、主を見つめて歩んだのです。それは今の私たちにとっても何ら変わらないことです。自分に与えられた任務を過小評価することなく、忠実に歩むならば、主からこう言われることでしょう。

 

主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。

マタイ25:21

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