八王子バプテスト教会通信

9月5日のメッセージ 2021年9月5日

み言葉を託された者:モーセ(4)

 

主はアロンに言われた、「荒野に行ってモーセに会いなさい」。彼は行って神の山でモーセに会い、これに口づけした。モーセは自分をつかわされた主のすべての言葉と、命じられたすべてのしるしをアロンに告げた。そこでモーセとアロンは行ってイスラエルの人々の長老たちをみな集めた。そしてアロンは主がモーセに語られた言葉を、ことごとく告げた。また彼は民の前でしるしを行ったので、民は信じた。彼らは主がイスラエルの人々を顧み、その苦しみを見られたのを聞き、伏して礼拝した。

出エジプト4:27〜31

 

主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたをパロに対して神のごときものとする。あなたの兄弟アロンはあなたの預言者となるであろう。あなたはわたしが命じることを、ことごとく彼に告げなければならない。そしてあなたの兄弟アロンはパロに告げて、イスラエルの人々をその国から去らせるようにさせなければならない。しかし、わたしはパロの心をかたくなにするので、わたしのしるしと不思議をエジプトの国に多く行っても、パロはあなたがたの言うことを聞かないであろう。それでわたしは手をエジプトの上に加え、大いなるさばきをくだして、わたしの軍団、わたしの民イスラエルの人々を、エジプトの国から導き出すであろう。わたしが手をエジプトの上にさし伸べて、イスラエルの人々を彼らのうちから導き出す時、エジプトびとはわたしが主であることを知るようになるであろう」。モーセとアロンはそのように行った。すなわち主が彼らに命じられたように行った。彼らがパロと語った時、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。

出エジプト7:1〜7

 

今週はモーセのしくじりの話ではありません。「み言葉を託された者」の話は、全てしくじりの話ばかりではありません。確かにここ二回、立て続けにモーセがしくじっています。前回は、妻チッポラが不機嫌になることを避けるために、神がアブラハムの全ての子孫に命じていた割礼を我が子に施さずにいて、神を怒らせます。その前は、燃える柴のなかかモーセに声をかけてイスラエルをエジプトから導き出すためのリーダーに任命した時、モーセは自分は口が達者でないから、他の時任な人を遣わしてくだっさい、と言って神を怒らせました。結局、兄のアロンが語り役になることで、話はまとまりました。今週の話にはこのアロンが大きく関わってきます。

 

エジプトのパロ(ファラオ)の前に立って陳情を申し立てるのには、モーセ以上の適材はいませんでした。何せ、40年間もエジプトのプリンスとして育ったので、宮廷の所作も儀礼もよくわきまえていました。しかし、自信がないということで、口が達者な兄のアロンに必要な言葉を吹き込み、いわゆる「二人羽織」でこの役に当たることになりました。

 

当初は、この通りにことが運びました。モーセが神からの言葉を受け、それをアロンに伝え、言い方なども仕込み、パロの前でそれを述べさせました。しかし、出エジプトの7章からしばらく読み進みますと、最初のうちはアロンを使っていたモーセが、徐々にアロンを使わなくなり、単独行動に出るようになります。そして、ついに大舞台で完全に単独行動に出ます。

 

主はモーセに言われた、「わたしは、なお一つの災を、パロとエジプトの上にくだし、その後、彼はあなたがたをここから去らせるであろう。彼が去らせるとき、彼はあなたがたを、ことごとくここから追い出すであろう。あなたは民の耳に語って、男は隣の男から、女は隣の女から、それぞれ銀の飾り、金の飾りを請い求めさせなさい」。主は民にエジプトびとの好意を得させられた。またモーセその人は、エジプトの国で、パロの家来たちの目と民の目とに、はなはだ大いなるものと見えた。モーセは言った、「主はこう仰せられる、『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中へ出て行くであろう。エジプトの国のうちのういごは、位に座するパロのういごをはじめ、ひきうすの後にいる、はしためのういごに至るまで、みな死に、また家畜のういごもみな死ぬであろう。そしてエジプト全国に大いなる叫びが起るであろう。このようなことはかつてなく、また、ふたたびないであろう』と。しかし、すべて、イスラエルの人々にむかっては、人にむかっても、獣にむかっても、犬さえその舌を鳴らさないであろう。これによって主がエジプトびととイスラエルびととの間の区別をされるのを、あなたがたは知るであろう。これらのあなたの家来たちは、みな、わたしのもとに下ってきて、ひれ伏して言うであろう、『あなたもあなたに従う民もみな出て行ってください』と。その後、わたしは出て行きます」。彼は激しく怒ってパロのもとから出て行った。

出エジプト11:1〜8

 

モーセ、齢80にして成長しています。最初の四十年間はエジプトのプリンスとして、次の40年は妻の尻に敷かれていることに甘んじついる羊飼いとして、成すことができなかった成長を、「苦手だからやりたくないことだが、あえてそれをやる」ことで、短期間で成し遂げています。これがひとつ、私たちにとってお手本になります。私たちが主に従って行動すると、仮にそれが苦手なことであっても、確実に成長がありますし、私たちはそれを実感することができるのです。

 

いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である。兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。

IIペテロ1:3〜10

 

あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。

Iペテロ2:30

 

このように、私たちクリスチャンの成長とは、一種の回帰的学習なのです。同じような体験を重ねていくことで、そもそもは備わっていなかった、あるいは芽生えていなかった性質を伸ばし、私たちの特徴にしていくのです。

 

しかし、モーセのこの成長をよく思わなかった人たちもいました。そしてそれは実は何と、モーセに最も近い身内、兄のアロンと姉のミリアムでした。

 

モーセはクシの女をめとっていたが、そのクシの女をめとったゆえをもって、ミリアムとアロンはモーセを非難した。彼らは言った、「主はただモーセによって語られるのか。われわれによっても語られるのではないのか」。主はこれを聞かれた。モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。そこで、主は突然モーセとアロン、およびミリアムにむかって「あなたがた三人、会見の幕屋に出てきなさい」と言われたので、彼ら三人は出てきたが、主は雲の柱のうちにあって下り、幕屋の入口に立って、アロンとミリアムを呼ばれた。彼らふたりが進み出ると、彼らに言われた、「あなたがたは、いま、わたしの言葉を聞きなさい。あなたがたのうちに、もし、預言者があるならば、主なるわたしは幻をもって、これにわたしを知らせ、また夢をもって、これと語るであろう。しかし、わたしのしもべモーセとは、そうではない。彼はわたしの全家に忠信なる者である。彼とは、わたしは口ずから語り、明らかに言って、なぞを使わない。彼はまた主の形を見るのである。なぜ、あなたがたはわたしのしもべモーセを恐れず非難するのか」。主は彼らにむかい怒りを発して去られた。雲が幕屋の上を離れ去った時、ミリアムは、重い皮膚病となり、その身は雪のように白くなった。アロンがふり返ってミリアムを見ると、彼女は重い皮膚病になっていた。そこで、アロンはモーセに言った、「ああ、わが主よ、わたしたちは愚かなことをして罪を犯しました。どうぞ、その罰をわたしたちに受けさせないでください。どうぞ彼女を母の胎から肉が半ば滅びうせて出る死人のようにしないでください」。その時モーセは主に呼ばわって言った、「ああ、神よ、どうぞ彼女をいやしてください」。主はモーセに言われた、「彼女の父が彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日のあいだ、恥じて身を隠すではないか。彼女を七日のあいだ、宿営の外で閉じこめておかなければならない。その後、連れもどしてもよい」。そこでミリアムは七日のあいだ、宿営の外で閉じこめられた。民はミリアムが連れもどされるまでは、道に進まなかった。

民数記12:1〜15

 

アロンとミリアムにとっては、モーセはいかに偉大な働きのために用いられていても、やはり永遠の末っ子、永遠の「弟君」だったのです。そこでモーセだけが、自分たちの知らない世界で用いられていくようになると歯痒かったのでしょう。一方、モーセは何も言い返せずに、言われ放題でしたが、今回は主が完全にモーセの味方に回ります。そしてモーセがミリアムの癒しを求めると、7日間の清めの期間を通してそれを実現します。

 

今回のモーセに「しくじり」があるとすれば、一番最初に、喋ることに自信がないから、ということでアロンを入れさせたことです。主のご計画は、人間の浅はかな知恵から見た場合、無謀であったり不合理であったりしますが、それは実は完全なものなのです。そこに人間の知恵知識を混ぜ込むと、薄めてしまい、またその後の揚げ足取りの材料も残してしまうことになります。

 

一方、アロンとミリアムの「しくじり」、いや、罪は、決して小さなものではありませんでした。人間の自然な感情と考えで神のご計画を非難してしまったのです。

 

バプテスマのヨハネの父、ゼカリヤも、神のみ告げを受けた時、なぜそれが間違っていて、なぜうまくいかないのかを、理論立てて説明しました。その結果、その子が生まれるまでは口が聞けなくなってしまいました。一方、生まれてきたヨハネは、主の働きを完全に成し遂げました。

 

私たちに、モーセやヨハネのような大役が回ってくることはないかもしれません。しかし、主が私たちの求めている役とは、私たちの肉の思いとは合致していないであろうことは間違いありません。そうすると、私たちが進むべき道と、私たちが進みたい道との間に矛盾が生じてきます。これは、全てのクリスチャンがどこかの時点で直面する葛藤です。そこで、自分の知識や経験に縛られずに主に従うことを選択することができるのであれば、大きな成長があります。

 

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ…

詩篇37:5

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