八王子バプテスト教会通信

3月29日のメッセージ 2020年3月30日

イェスの譬え話(19)「失われた羊」(ルカ15:3〜7)

今日は「失われた羊」の例え話です。羊飼いが100頭の羊を飼っていて、そのうちの1頭がいなくなってしまったなら、残りの99頭をそこに残して、その1頭を探しに出ていくだろう?そして見つけたなら、大喜びで帰ってくるだろう?というものです。

このお譬え話から実に様々なことが学べますが、まず大切なのは、イェスがこの譬え話を話すきっかけになった出来事です。直前のルカ15:1〜2にこうあります。

 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。

このパリサイ人や律法学者の態度を叱責する意味で、イェスはこの譬え話と、それに続く「失われた銀貨」と「放蕩息子」の話をされたのです。
イェスは自分と一緒にいる人々が、そんなに悪い人ではない、という弁明はしませんでした。イェスは彼らがどのような人であるのか、よくご存知でした。イェスの周囲に常に存在が伺えるのは、取税人と娼婦です。取税人は、ローマのためにユダヤ人から税金を取り立てる、民族の裏切り者とされる人々です。当然村八分にされており、おそらく口をきいてくれるのは仲間と、それからイェスだけでしょう。娼婦も同様な扱いを受けていました。パリサイ人は、おそらく心の中では、「昔のイスラエルなら、このような奴らを処刑にして、国を清められるのに」と思っていたでしょう。しかし、取税人はローマの制度、植民地のユダヤは抗えません。また、娼婦に関しても、経済的な理由から仕方なくしている人がほとんどで、福祉派のパリサイからすれば「不都合な事実」として見て見ぬふりしているところもありました。手出しはできないが、思い切り上から軽蔑していました。

イェスが最も問題にしたのは、このような「罪人」の姿勢ではなく、パリサイ人や律法学者の姿勢でした。自分は清くて神に愛されている、こいつらは汚れている。そのような彼らに対して、イェスは「お前らも同じくらい汚れているぞ」とは言わずに、大変な皮肉を使いました。
「健康な人に医者はいらない。いるのは病人である。」
これはつまり、お前らは聖人で清くて、私の話も悔い改めも全く不要だろう、でも誰もがそうじゃないんだ、という皮肉です。そして、そのパリサイ人たちが軽蔑していた罪人は、神に取ってはかけがえの無い大切な存在である、ということを教えるためにこの譬え話をしました。

私たちはこの話から、私たち一人ひとりに対する神の絶大な愛が伺えます。どのような犠牲や代償を支払ってでも、私たちを救いたいのです。私たちが救いの必要性に気づく以前から、イェスはすでに私たちのためにとてつも大きな代償を支払って、私たちの魂を探してきたのです。私たちがイェスに罪の許しを求め、救いを求めたその瞬間、天国も喜びで湧いたのです。そこで、今日のポイント2点です。

ポイント1:自分を過小評価しない。
私たち仕事や日常生活で忙しくて信仰のことが疎かになってしまう時、自分の罪や無力さで悩んでいる時、人と比べて自分はダメだと落ち込んでいる時も、イェスは私たちを熱烈に愛してくださり、私たちのために本気なのです。当然、私たちの気分がどうであれ、私たちから最高の奉仕を期待し、求めます。自分なんて大したことないからいいや、という態度はイェスの愛を踏みにじる、神を本気で怒らせる行為です。ただ、私たちがそのような気持ちをイェスに打ち明けるのであれば、イェスもそれを聞いて受け止めてくれます。

ポイント2:他人を過小評価しない。
私たちが本当に「人間のクズ」と思ってしまうような人もこの世の中にいます。確かに、許せない言動はたくさんありますが、許せない人がいてはいけません。私たちが本能的にどんなに軽蔑したくなるような人であっても、イェスはその人を愛し、その人のために命を十字架で捨てられたのです。ちょうど、私たちのためにそうしてくださったように。気をつけましょう、主人から莫大な借金を棒引きしてもらいながら、同僚の小銭程度の借金が許せず、主人の怒りをかった僕の譬え話のようにならないように。

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