八王子バプテスト教会通信

5月7日のメッセージ 2023年5月7日

み言葉を託された者:イザヤ(15)

見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は、のろわれた罪びととされる。彼らは家を建てて、それに住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てる所に、ほかの人は住まず、彼らが植えるものは、ほかの人が食べない。わが民の命は、木の命のようになり、わが選んだ者は、その手のわざをながく楽しむからである。彼らの勤労はむだでなく、その生むところの子らは災にかからない。彼らは主に祝福された者のすえであって、その子らも彼らと共におるからである。彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。おおかみと小羊とは共に食らい、ししは牛のようにわらを食らい、へびはちりを食物とする。彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、やぶることはない」と主は言われる。

イザヤ65:17〜25

 

さあ、イザヤ書のグランドフィナーレです!黙示録に記載されている、反キリストに対する勝利と千年王国とを経て、新しい天と新しい地が登場します。ここに描かれているのは、天国の栄光の世界ではなく、人間の住む地上の、あるべき姿です。王座の前の光り輝く光景ではなく、ありとあらゆる人と生き物とが平和に過ごす、地上の世界です。アダムとエバの罪の故に全宇宙にかけられた呪いから解放され、日々を平和に暮らす世界です。そこでは、動物たちもお互いに捕食することはなく、人も地を耕せば地がそれに応えて産物を生じさせる、今から見れば「ユートピア」のような世界です。

 

そのような世界を到来させようとして、人間はさまざまな試みを繰り返してきましたが、いずれも失敗しています。なぜなら、そのような世界を到来させるためには、宇宙の法則と人間の心とが変えられなければならないからで、唯一それがお出来になる方の時が来ていないからです。

 

では、私たちはその世界の到来を前倒しすることができないのであれば、ただただそれを待つしかないのでしょうか?いや、それも主の望んでおられることとは違います。前倒しにすることはできませんが、それまでの間にも、私たちのするべきことはたくさんあります。そして、そのするべきこととは、御国を来らせるような大きな業ではなく、御国の住人にふさわしい業をもって日々を過ごすことです。

 

わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。

エペソ2:10

 

そもそも、私たちが何のために作られ、何のために存在し、何を求められているのかを考えましょう。人間は、時にはあまりにも端的に自分が祝福されることが自分の存在意義であるかのように思い込み、主が私たちに何を期待して創造されたのか、何を望まれているのかのを、完全に無視してしまいがちです。

 

主が人間をこの地上に置かれたのは、自由意志を持って正しい行いで日々を満たし、神の友としてこの地上を歩む存在を望まれたからです。エデンの園ではそれが一時的に実現していましたが、今度は永久にそれが実現します。そのためにはそれなりの準備が必要ですが、私たちの側としては神の準備の手伝いをすることはできません。しかし、人間の側の準備をすることはできます。それは、人間がそもそも与えられた役割を果たすことにあります。

 

自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。

マタイ6:1〜8

 

イザヤは、長い生涯を通してイスラエルとユダの歴史に立ち合い、壮絶は歴史絵巻を記録しました。ユダに対しては、いかにすれば罰を受けずに祝福を受けるかを示しましたが、ユダはその忠告に耳を貸さず、捕囚の道を選びました。その理由は、偶像礼拝と、社会的公平の欠如でした。あまりにも基本的な事柄ですが、あまりにも基本的すぎて、人々が目もくれなかったのです。しかし、主が目を注がれるのは人間の誰もが記憶するような大きな行いではありません。

 

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

マタイ7:21〜23

 

主が目を注がれるのは、人間がほぼ誰も注目しない、小さな行いや出来事のひとつひとつです。

 

人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

マタイ25:31〜40

 

時に私たちは、私の存在など、神の壮大なご計画と比べてあまりにも小さく、主はわたしちのような存在を気にかけることもないのではないか、と思ってしまうかもしれません。しかし、それは主のお考えとは違っており、主は私たちに目を注がれておられるのです。

 

二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。

マタイ10:29〜31

 

わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。

ガラテヤ6:9〜10

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