八王子バプテスト教会通信

3月28日のメッセージ 2021年3月28日

「十字架の意味」

 

さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。

Iペテロ2:24

 

コロナ禍でステイ・ホームしているうちに、気がついたら復活祭が目の前です。多くの教会では、受難節から様々な行事を行うところでしょうが、今年も去年に続いてリモートになっているかもしれません。私たちバプテストは、カトリック・プロテスタントの流れで発生した様々な行事を特段守ることをしませんが、キリストが私たちのためにしてくださったことを決して軽視しているわけではありません。

「イースター」という言葉は、元々はゲルマン民族の豊穣祭から来ているとされています。偶像信仰の祭りで、後にキリストの復活を祝うことがこの祭りの日に合わせて行われるようになりました。祭りそのものの原点は偶像礼拝にありますが、それはキリストが私たちのためによみがえってくださった事実を何ら損なうものではありません。それはちょうど、「クリスマス」が、元々は古代ローマの「サタネリウス」のような日迎え祭だった日に祝われるようになったのと同じで、キリストが私たちのために生まれてくださった事実を何ら損なうものではありません。ただ私たちは、その様々な行事に目を奪われるのではなく、キリストに目を注ぐことが大切です。

 

さて、今週はキリストの十字架に目を注ぎましょう。非常に重要な出来事です。西洋社会では、「キリストを境に人類の歴史がBC (Before Christ) と AD (Anno Domini) に分けられる、キリストが人類の歴史の分水嶺だ」などと言われることがありますが、これは西洋人がたまたまこのように歴史を管理していたからの話であって、少し論点がずれているように思えます。

 

というのも、そもそも神は永遠のお方であり、天地創造から人類の堕落と救済、そして再臨と新しい天と地とは、ひとつの流れなのです。神がなさろうとしていることを少しでも理解するためには、私たち人間の主観や事情を中心に据えて考えることををやめる必要があります。今日は、キリストの十字架についていくつかの点について考えたいと思います。

 

(1) それは計画的だった

キリストを神の化身とみなさずに歴史上の一人物として捉える人にとっては、イェスは、たまたま政治闘争に巻き込まれて被害者になった、という見方になってしまいます。しかし、実際、エデンの園で神はサタンに対し「彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」と、サタンは女の末裔であるキリストに大きな痛手を与えるが、それは同時にサタンの敗北を意味する、と伝えました。イェスも弟子たちに対してその計画を話していましたが、彼らはそれを受け入れることはできず、実際に起こった時には大変なパニックになりました。

 

(2) それは避けられないことだった

「血を流すことなしには、罪の許しはあり得ない」との通り、旧約の律法では血が求められました。しかし、それ自体に効力があったのではなく、それはやがて流されるキリストの血の「予型」でした。全人類の罪のために流される血は、罪なき者の血でなければなりません。エノクもエリヤも大変な義人でしたが、「罪なき者」ではありませんでした。唯一、人となった活ける神なるキリストだけがそのことを達成できたのです。キリストの十字架は、人類の歴史上、ただ一度だけ、「罪なき者が罪びとの身代わりになる」出来事でした。というのも、「罪なき者」としてこの地上を歩んだのは、キリストの他誰もいません。

 

(3) それは進んで選択されたことだった

実は、イェスは十字架にかかることを取りやめることも、しようと思えばできたのです。苦しみを避けて、任務遂行せずに脱出して天に帰ることもできたし、仮にそうしても責める者はいません。しかし、そうしてしまったならば、人類が悪魔の手に渡り、滅んでしまいます。

だからこそ、ゲッセマネの園であれほど苦悩したのです。そこでは、「わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか」と言われ、またご自分の命については「だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。」とも言われました。計画されていたこととは言え、イェスは自ら進んでそれを選択されたのです。だからイェスが歩まれたドロローサの道は、キリストの「宿命」というよりは、私たちに対する途方もない愛の現れです。その途中のどの時点でも投げ出すことができたのに、最後までそうせずに私たちを想って耐え抜かれたのです。

 

(4) それは模範を示す生き方、死に方だった

「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」(ピリピ2:6〜8)

キリストがなされたことほとんどは、ご自身のためではなく、私たちの模範となるためでした。キリストはこうも言われました。

「また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。」(マタイ10:38)

「十字架を背負う」という言葉は、日本では「業(ごう)」という仏教的な意味で、また西欧では「クリスチャンとしての働きに携わる」という意味で使われていますが、実際の意味は「死刑台を覚悟する」という意味そのものに他なりません。実際、信仰の故に死ぬ人は一部ですが、何をするにも、その覚悟があるかないかで、大きく違ってきます。

 

(5) キリストには選択肢があった。私たちに選択肢はあるのか?

それでは、私たちはこのように用意されたキリストの十字架の救いを受け入れる、受け入れない、という選択肢はあるのでしょうか?個人の自由というものはないのでしょうか?

ある意味、それは「ある」とも「ない」とも言えます。確かに、この地上にいる大半の人が、受け入れないという選択をするでしょう。しかし、罪の許しを得て、永遠の滅びではなく永遠に命に入りたいというのであれば、受け入れないという選択肢はありません。なぜなら、受け入れないという選択イコール永遠の滅びを選択しているからです。

「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4:12)

 

また、私たちがキリストに罪を許され、救われたあとも、選択は続きます。私が天国に行けることをいいことに、好き勝手な生き方をして、キリストの模範に従わないという選択肢は、これもまたあります。そのような選択をしたしもべの譬え話があります。譬え話はマタイの25章にあります。5タラントと2タラントの運用を命じられた仲間たちは積極的に運用して主人に褒められますが、1タラントの運用を任されたしもべは何もしませんでした。

「一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。」(マタイ25:24〜28)

 

ここでいう「運用」とは何でしょうか?金儲けのことではありません。神が私たちに託されている「リソース」はいくつもあります。それは、自分に与えられた時間、この身体、健康、出会い、などです。人によっては、お金出逢ったりもします。これを使ってどうするというのでしょうか?

 

先ほど、「この地上にいる大半の人が、受け入れないという選択をする」と言いました。しかし、それは必ずしも十分な理解があってなされる選択ではありません。確かに、ローマ1:20には「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。」とありますが、主はこれで終わることを望んでおられるわけではありません。

 

聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。

ローマ10:11〜15

 

述べ伝える者が必要、ということです。しかし、これは必ずしも教会から派遣されて出ていく宣教師に限定されたものではありません。それと全く同じ重要性を持っているのは、例えば職場での伝道者、学校での伝道者、施設内での伝道者、ご近所での伝道者、家庭内での伝道者など、教会から派遣された宣教師が入り込めないところにいる一人一人、つまり私たち一人一人です。全て自分が携わる人々に対して、言葉と行いとを通してキリストを表していけば、必ずそこで実が結ばれますし、主にも喜ばれます。

 

選択肢があるようでないと思われるかもしれませんが、キリストが私たちのためにあれだけ苦しまれたのが、何のためであったのか、これから私たちを待っている喜びがいかに大きなものであるかを考えれば、その道を進むのが当然の選択でしょう。

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