八王子バプテスト教会通信

1月24日のメッセージ 2021年1月24日

二週間続けて、悲しい話から生まれた素晴らしい讃美歌について考えました。今日はその続きではありませんが、このふたりが立てた、証しというものについて考えたいと思います。彼らは、大変な悲しみの中において与えられる、主の慰めと恵というものが実在するという生き証拠になりました。これこそが証しです。私たちは言葉をもって証しをしますが、周囲の人々は私たちの言葉よりも私たちの行動に注目しています。その行動を見て、私たちの語る言葉を判断するのです。

「きよきとまことに歩まん 彼らは我を見つむ」と聖歌にある通りです。

聖書には、信仰をもって歩んだために証しを立てることができた、私たちの人生の先輩方について色々と書かれています。このような人物を特にまとめて書かれているのがヘブル人への手紙の11章です。ここでヘブルの11章を読みましょう。

 

ここには、アブラハムやモーセのような偉大な人物の名前が連なっていますが、証しとは、歴史に名を残すような偉人でなければならないというわけでもありませんし、人生のどん底に突き落とされるような悲しみがなければならないというわけではありません(そういう場合もありますが)。証しの中には、波乱万丈の人生から生まれるものもあれば、静かで目立つことのない一生を送る人からも生まれるのです。

 

「私は立派なクリスチャンじゃないから立派な証しを立てることができない」と思われがちですが、それは主の考えと大きく異なります。イェスが信仰を特に絶賛された人物を考えてみましょう。それは世間から立派なユダヤ人と見られる人物ではなく、例えば、宮に最後の2レプタを献金した未亡人(ルカ21:1〜4)、娘を癒してもらおうとイェスに食い下がった外国人女性(マタイ15:21〜28)、しもべを癒してもらうのに、「ただ、お言葉をください、そうすればしもべは治ります」と述べたローマ兵(マタイ8:5〜13)など。

 

人々を驚かせるような大きな証しは目立ちますが、物静かな証しにもそれに決して劣らない力があるのです。とある教会にいた老夫婦がその良い例です。特に教会の中で目立った言動もなく、本当に物静かな老夫婦でした。しかし、その老夫婦が毎週、雨でも雪でも、必ず礼拝に出席して同じ席に座っているその姿こそが、周いに癒しと勇気を与えました。戦争や経済危機などで誰もが心を乱している中でも、静かに座って神の言葉に耳を傾ける二人の姿を見て周いは「そうだった、大丈夫なんだ」と冷静を取り戻しました。

 

では、私はどのような証しを立てれば良いのでしょうか?皆様はどのような証しを建てたいのでしょうか?

実は、これは愚問なのです。私たちが意図的に証しを立てるのではなく、自分が置かれた場所で信仰をもって「きよきとまことに歩む」ならば、それが証しになるのです。しかも、人間が作為的に作った証ではなく、土の器に携えた神の宝が、神の力によって、輝くのです。

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