八王子バプテスト教会通信

6月27日のメッセージ 2021年6月27日

「完全にととのえられた者」

聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

IIテモテ3:16〜17

 

先週のメッセージ最後では、神と人とが共に住まう世界、つまりこの世の「あるべき姿」を私たちは望んでいるものの、果たして私たちの側が「あるべき姿」になっているか?ということについて考えました。このIIテモテ3章のこの箇所は、パウロがテモテに対して書いているので、どちらかといえば聖職者や伝道者にしか関係がない箇所のように受け取られがちです。しかし、「あるべき姿」になる必要があるのは、いわゆる「先生方」だけではありません。

 

キリストの体は様々な部位で形作られているという例えを、パウロは繰り返し使っています。その各部位の中で、どれが一番大事でどれが大事でないか、どれが最も崇高でどれが最も卑属か、などというのは全く無意味な議論だ、と強調しています。なぜならば、どの部位も同じ体の一部、他の部位を必要とし、他の部位に必要とされているのです。教会の中(少なくとも、キリストの教会の中)はビデオゲームのようにレベルを上げていって高い地位を手に入れるところではありません。残念ながら、暗黒の国教時代の影響でいまだにそのようにしている、実質的には「人間の教会」である組織はいくつもありますが。キリストの教会においては、各自がそれぞれの信仰と経験に応じて、それぞれ持っている賜物や能力を、その対象に関係なく捧げ、主がそれを用いられます。牧師や執事の仕事は特殊ですが、他の部位の仕事よりも偉大であるとかいうことはありません。皆がお互いを必要としているのです。

 

わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。

ローマ12:3〜10

 

それぞれ違うことをして奉仕しているのであれば、普段からやっていることも違うでしょう。賜物が御言葉の解き明かしであれば、その人はおそらく、多くの時間を聖書の勉強に投資するでしょう。とりなしの祈りをする人であれば、祈りと、心の安定とに、多くの時間を投資するでしょう。寄付をする人であれば、その人は寄付の元手が必要ですので、仕事や商売に多くの時間を費やすでしょう。同じひとつの体のために、それぞれ全く異なる日常を過ごすのです。

 

しかし、全員に共通する点があります。それは、不完全な人間であるため、神の働きにあたるためには、特別な助けが必要であるということです。今日の聖句の中で、聖書は「人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」とあります。これは牧師候補の神学生とか特殊な人の話ではなく、私たち全員です。この話を逆説的に捉えれば、私たちの中で、「教え、戒め、正しくし、義に導く」ことを必要としない人は誰一人いないということです。

 

われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。

イザヤ53:6

 

次のように書いてある、義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。

ローマ3:10〜12

 

これが私たちの肉の本質です。だから私たちは神の役に立たないということではなく、ならば私たちはどうすれば神の役に立つのか、ということです。そしてその答えが、御言葉なのです。私たちにとっての必要な導きはそこにあるだけではなく、「あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になる」とさえ書かれています。生涯を通しても私たちは完全にキリストの姿になることはできません、パウロも最後まで自分は完成していない、完成を目指し続けるだけだ、といっていますが、自分の走るべき競争を走り、戦うべき戦いを戦い抜いたとも書いています。私たちが完璧にキリストの姿にならなくても、御言葉によって導かれて帰られていくならば、不完全な肉の者であっても「完全にととのえられた者」になることができるのです。御言葉を学び、御言葉に従うことによって。

 

しかし、これは私たちの現状を変えようとするものであり、私たちの肉の性質は変わることをあまり望みません。意思では変わることを熱望しても、それを実現する手段は楽しいものではありません。良い例が、体重が増えすぎてしまった人の減量です。体重減を熱望しても、「食べる量を減らす」「美味しいものを減らす」「したくない運動をする」といった不可避な条件を突きつけられると、人間は一気にやる気を失ってしまいます。

 

そのために、極端な行動に出る人も少なくいません。例えば、脂肪吸引手術です。外科的に脂肪をとってしまえ、というものです。しかし現実には、これで脂肪の多くをとってしまっても、その後は「食べる量を減らす」「美味しいものを減らす」「したくない運動をする」をしなければ太る体質は変わらないため、せっかくお金を払って手術した人の大半が、数ヶ月後にまた太った自分に戻ってしまいます。

 

また、雑誌やネットに怪しげな「減量サプリ」が溢れています。中には多少役に立つものもあるかもしれませんが、「食べる量を減らす」「美味しいものを減らす」「したくない運動をする」と比べれば効果は限定的で、しかも健康被害の懸念もあります。実際、このようなサプリで命を落とされた方もおられます。「ズル」はなかなかできないようになっているのです。

 

というわけで、私たちが御言葉に従って変わろうと思うならば、変わりたくない自分の性質に立ち入るわけですから、私たちの内部からの「反発」が当然あります。

 

すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。

ヘブル12:11

 

問題は、私たちの弱い内面は、信仰によって成長して主に喜ばれる私たちの未来の姿をイメージできずに、今日の保身に走ってしまうことです。そこで、御言葉を読んで従おうとしたときでも、非常にありがちなことをやってしまうのです。

・気に入った箇所のみを読む

・都合の悪い箇所は読まない

・読んでホッとすることを最重要視する

 

これでは鍛錬も成長もないですね。しかも、これではさらに大きな罪を犯してしまっていることにさえなりかねません。

 

聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。

IIペテロ1:20〜21

 

私たちが自分勝手に自分に必要な御言葉を選んでしまったならば、その時点で私たちは自分勝手に聖書を解釈しているのであり、さらに踏み込んで言えば聖書を改竄(かいざん)していると言っても過言ではないでしょう。御言葉への付け足しや削除にも当たりかねません。自分に負けないように気を付ける必要があります。

 

さて、今年はオリンピックが東京で行われます。日本がメダルをどれだけ取れるかが注目されますが、その中に日本の「お家芸」と呼ばれる競技がひとつあります。女子シンクロです。女子シンクロの日本代表チームがすざましい成長を見せたのは、1984年から2004年まで日本代表チームの総指揮をとった井村雅代前監督の元です。井村監督の指導はどのようなものかといえば、とにかく厳しく、とにかくストレートに選手たちを指導することです。あまりにもストレートな表現は、聞いている者には、「暴言」としか思えないようなものでした。私もスポーツニュースでその言葉を聞いて、「この人、よく刺されないな」と思ってしまったこともありました。

 

しかし、選手たちはあれだけ強烈な言葉を投げつけられ続けても、彼女を刺すどころ、愛して止まないのです。なぜならば、必死に努力して日本のトップまで上り詰めてきた自分たちを、世界のトップに押し上げてくれると知っているからです。そのためにはどれだけ厳しい言葉を叩きつけられても、信じ従って訓練を続けるのです。なぜなら、オリンピックの表彰台に立つ自分たちの姿がイメージできているからです。

 

私たちは、完全に整えられた者、あるべき姿の人、神と共に住まうものとしてのイメージができているでしょうか?あるいは、忙しい日常の中に、時折ふっと湧く感覚程度でしょうか?次回はこのことについて考えていきます。

 

兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

ピリピ3:13〜14

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