八王子バプテスト教会通信

9月18日のメッセージ 2022年9月18日

み言葉を託された者:ヨエル(1)

ペトエルの子ヨエルに臨んだ主の言葉。老人たちよ、これを聞け。すべてこの地に住む者よ、耳を傾けよ。あなたがたの世、またはあなたがたの先祖の世にこのような事があったか。これをあなたがたの子たちに語り、子たちはまたその子たちに語り、その子たちはまたこれを後の代に語り伝えよ。かみ食らういなごの残したものは、群がるいなごがこれを食い、群がるいなごの残したものは、とびいなごがこれを食い、とびいなごの残したものは、滅ぼすいなごがこれを食った。酔える者よ、目をさまして泣け。すべて酒を飲む者よ、うまい酒のゆえに泣き叫べ。うまい酒はあなたがたの口から断たれるからだ。一つの国民がわたしの国に攻めのぼってきた。その勢いは強く、その数は計られず、その歯はししの歯のようで、雌じしのきばをもっている。彼らはわがぶどうの木を荒し、わがいちじくの木を折り、その皮をはだかにして捨てた。その枝は白くなった。あなたがたは若い時の夫のために荒布を腰にまとったおとめのように泣き悲しめ。素祭と灌祭とは主の家に絶え、主に仕える祭司たちは嘆き悲しむ。畑は荒れ、地は悲しむ。これは穀物が荒れはて、新しい酒は尽き、油も絶えるためである。小麦および大麦のために、農夫たちよ、恥じよ、ぶどう作りたちよ、泣け。畑の収穫がうせ去ったからである。ぶどうの木は枯れ、いちじくの木はしおれ、ざくろ、やし、りんご、野のすべての木はしぼんだ。それゆえ楽しみは人の子らからかれうせた。

ヨエル書1:1〜12

 

今日から預言者ヨエルが神から託された言葉について考えていきたいと思います。ヨエルはユダ出身の預言者、しかも神殿付の権威ある預言者と見られています。預言者が活躍した時代は、多くの場合、国王の名前からわかるのですが、ヨエル書には国王の名称が何もないため、周辺の国々の名称から推察するしかありません。そう考えると、紀元前の7〜9世紀あたり、という範囲に落ち着きます。

 

ということは、ヨエルは自分で自分の予言の書を書き止めた最初の方の預言者ということになります。ヨナも早いうちの預言者でしたが、ヨナ書はアラム語で書かれているため、ヨナが活躍した時代からかなり後になって書かれたものと思われます。

 

さて、今日のキーワードは「いなご」です。今でも時々、アフリカ大陸でいなごの大群による被害がニュースで報じられることがあります。近年になって、そのいなごを一網打尽に捉えて、人間の食糧にしようという取り組みもなされていますが、当時ではどうすることもできず、作物が根こそぎ食べられて行くのを、指をくわえて見ているしかない、絶対的な絶望でした。

 

また、ここには、攻め登って来る勢力についても記載があります。その勢力も、国を丸裸にしていく、ということです。そこで、昔から、この様な議論がありました。いなごが侵攻軍を象徴しているのか?あるいは侵攻軍がいなごを象徴しているのか?どちらが実態でどちらが象徴なのか?

 

両方が実態であった、というのが正しいと思います。今先ほど目の前で起こっていたいなごの被害と同様のことが、「一つの国民」によって引き起こされるぞ、という警告です。いなごが畑を丸裸にした様に、その国民もこの国を丸裸にする、という警告の預言です。

 

作物に関しては、先週まで見ていたアモスが思い出されます。その時代のイスラエルは、民に広く主食を行き渡らせる「主食作物」の生産から、短期間でより利益が得られる「商品作物」に切り替える生産者が増えていました。その結果、連作障害と思われる状況などが起きていた様で、主食の値段が高騰し、貧富の差が一層拡大し、貧しい者が一層貧しくなるという状況がありました。

 

では、このいなごの被害は、人間の力では到底どうすることもできないところで起きたのではなく、人間の活動によって呼び込まれたものなのでしょうか?つまり、人間の活動の結果起きたものなのか、それとは無関係に起きたものなのでしょうか?両方あると思います。近年の環境の研究においては、確かに人間がいようといまいと起こる自然の変動があるし、人間の活動がその自然の変動と相まって状況をよくしたり悪くしたりしていることがわかってきています。

 

周囲の国家との関係についても同じことが言えます。何をどうやっても敵わない超大国がいきなり攻めてくるということも、あり得なくもありませんが、多くの場合、国家間の争いは、それ以前における対応で呼び込んでしまったりするものです。イスラエルの場合、カナンの地に入るときに、神の命令に逆らって一部の民族と和睦したり和合したりしたため、これが後々になって様々なトラブルの種になります。

 

国家間の問題はまた今後にするとして、神がこの世界を創造された時、この世界の管理運営の責任を人類に委託されています。

 

神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。

創世記1:29〜31

 

この「従わせる」「治める」というのは、長いこと大きく勘違いされてきたと思います。欧米に限ったことではなく、「人間が一番偉いから自然界をどの様に扱っても構わない」という姿勢で態度できたことが、今の様々な問題を引き起こしています。ジェレミー・リフキン 著(竹内均訳)の「エントロピーの法則」の冒頭で、過去に人類が自然界をwasteland(荒野)と呼び、人間の手によって生産的なものに変えなければならないという考え方が長く続いたことが紹介され、これが現在の環境問題につながっていることが指摘されています。

 

近年になって、クリスチャンの間に、「環境スチュワードシップ」という言葉が使われる様になってきました。「環境管理責任」というものです。「スチュワード」はときには単に「しもべ」の意味で捉えられがちですが、かなりニュアンスが違います。「しもべ」が「サーバント」であるのに対して、「スチュワード」は高いレベルの管理責任が与えられている従者を指します。

 

この違いが私の頭の中で繋がるきっかけになって出会いが、私の幼少期にありました。私は生後18ヶ月の時に親に連れられて来日しましたが、5歳の時に、1年間だけアメリカに戻ることになりました。その時代は、まだ飛行機の値段が高く、客船で帰ることになりました。英国客船ですが、当然三等キャビンです。しかし、食事はみんな大広間でとっていました。その食事を持ってくるのが、黒服のスチュワードです。私たちのテーブルを毎回担当しているスチュワードがいました。絵に描いたような英国の執事のような人でした。子供の語りかけにも親切に笑顔で応じてくれていたことを記憶しています。そして、そのスチュワードの何が一番記憶に残っているかというと、船がどんなに激しく揺れていても、うず高く積み上げた料理を、片手の五本指の先で支えた巨大なトレーの上から落とすことなく、難なくスイスイ歩いてくることでした。

 

私は、一度聞いてみました。お料理、落としたことないの?そうしたら、彼はこう答えました。私の家は昔から代々、この船会社に仕えています。私のおじいちゃんの時代から、今に至るまで、誰も料理を落としたことがありません。その時は、ふ〜ん、としか思いませんでしたが、大人になって神学を勉強している時に、この話をふと思い出しました。そうだ、この「仕える誇り」こそが、スチュワードシップだ!いろいろとつながりました。確かに、この様な話を聞いたこともあります。イギリスの名門ゴルフ場には、名門ギャディー一家がいて、そのゴルフ場に来るトップゴルファー達に仕えることを最大の誇りにしていることを。

 

なるほど、では、私たちがその様な意識で取り組めば、全てがうまくいくのか?残念ながら、そうではありません。人間が人間の身勝手で呼び込む問題は減らすことはできても、何せ私たちが生きているのは罪の呪いの元にある世界、人間の力ではどうにもならないことがたくさんあります。そもそも、私たちに与えられている責任は、この地上に御国を実現することではなく、御国の到来の準備をすることです。この勘違いが、多くのクリスチャンを誤った道に導いてしまっています。

 

しかも、私たちの手でなんとかなることと、どうにもならないことの区別さえ、私たちにはわかりません。だからこそ、全てのことに対して、神の僕として全力で取り組まなければならないのです。主からお預かりしている世界ですから。

 

あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあなたは、すべての事をなされる神のわざを知らない。朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。

伝道の書11:5〜6

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