八王子バプテスト教会通信

4月25日のメッセージ 2021年4月25日

イェスの復活・その後:(3)エマオへの道の弟子たち」

 

この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた。語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。

ルカ24:13〜48

 

ここに二人の弟子が登場しますが、イェスの12弟子(この時点ではユダが自殺したために一人欠員で11弟子)とは別の弟子たちです。一人の名前はクレオパと記録されていますが、もう一人は氏名不詳です。エマオという村に向かって歩いていた彼らは、様々な要因でショック状態でした。イェスの復活の情報でも混乱していましたが、それ以上にイェスの死の現実があまりにも大きすぎました。そういう彼らをイェスは叱責しながらも、優しく導き、やがてはご自身を表します。

 

しかし、以前はイェスは繰り返し、ご自分が十字架に付けられて死なれ、葬られ、そして三日目によみがえると教えたはずです。11弟子の場合も同様ですが、なぜ、これらのことが目の前で起きているのに、この弟子たちは神のご計画が実行されていると理解できなかったのでしょうか?これにはいくつか理由があり、それこそが私たちが今日でも気をつけなければならない点でもあります。

 

まずひとつには、当時は「打たれたメシア」の概念は当時のユダヤ教の中には存在しませんでした。イザヤ53章やダニエル9:26には明らかにこれが教えられているのですが、当時のラビ・ユダヤ教は強力なメシアによるイスラエル王朝の復興を全面に打ち出し、その結果、「打たれたメシア」の教えはかき消されてしまっていました。彼らはその中で育ち、それが良いとも悪いとも思わず、当然のこととして受け止めていました。それがひとつの「教え」であることにすら気づかず、それが彼らの信仰の生地をなし、彼らの空気の一部だったのです。しかし、彼らは教えられたことを素直に受け入れていただけなので、それ以上何も特段感じなかったのでしょう。しかし、それが彼らの思いと、神のご計画の現実との間に大きな乖離を作ってしまったのです。だから、彼らがイェスがメシアであることを事実として信じれば信じるほど、イェスが死ぬことはないという間違った理解も並行して育むという現象を引き起こしてしまっていたのです。

 

当然、私たちも同様の過ちをしないように、気をつけなければなりません。しかし、様々な文化的な要素が、それを難しくしています。たとえば、日本や韓国、中国のように儒教の影響が強い国では、「師の教えを疑うことはあってはならない」というような雰囲気があります。しかし、素直なクリスチャンというのは、自分を教え育ててきた先生の言葉を疑わない、今の牧師の教えを丸呑みにする、ということではありません。

 

ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。

使徒行伝17:11

 

そこにいるベレヤの信者たちは、素直だったので、教えを心から受け入れながらも、「果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた」と記録されています。儒教社会からすると矛盾のようにも思われますが、御言葉の権威は教師個人の権威よりも上なのです。自分の周囲にあり、自分にとって当たり前の教えも本当に神の御言葉に照らし合わせてみるのも、「素直」な信者の責務です。

 

では、欧米ではどうでしょうか?クリスチャンは誰も、師弟関係から自由に解放されて真っさらな境地から御言葉を学んでいるのでしょうか?

とんでもないことです。欧米人には、師弟関係よりも強い、民族と文化の縛りがあります。自分の国や民族で定着した形のキリスト教が原型からどれだけかけ離れていても、自分たちの信仰そのものが本質的かつ根本的に正しい神の教えである、と信じたがるのです。

 

アメリカの田舎に伝わる地元の古い讃美歌にも、こういうのがあります。

“Give me that old time religion … It was good for our Fathers, it’s good enough for me.”

(あの古くからの信仰が良い、父祖らのために良かったのであれば、私にとっても良い)

形こそ違えど、神ではなく人間の権威に依存した信仰です。

 

二つ目の点は、聞きたくない話には耳を貸さない、自分にとって不都合な聖句は飛ばして読む、という私たちにとって誰もがやってしまいがちな人間的な弱さがあります。イェスがご自身の十字架について語っても、よくわからないし、そもそもありえないからスルー、という弟子たちの心境が読み取れます。しかし、一度だけ、イェスのこの言葉に真っ向から対抗したペテロがいます。

 

この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

マタイ16:21〜23

 

イェスがご自身の十字架について説かれると、ペテロがそれを諌めます(「諌める」という日本語は、「目上の人に対して、欠点を改善することを強く求める」という意味です)。そのペテロに対して、イェスはサタン呼ばわりされます。人間から見て当然望まれることであっても、また当然忌み嫌われることであっても、それが神のみ旨と相反するものであるならば、悪魔の所業に他ならないのです。

 

しかし、私たちが御言葉の中に自分に合わないと思われるものを見つけても、ペテロのように直接抗議するような無礼なことをしません。私たちは、神様に抗議したり、教会や牧師に抗議したり、日本聖書協会に抗議するようなことはしません。私たちは、より陰湿で姑息な方法でそれに対処する傾向があります。それは何かというと、そういう御言葉の箇所を「飛ばして読む」「深く考えない」「自分の好きな御言葉を代わりに読む」ということをします。そうなると、全て霊感を受けて書かれ、私たちを完全に整えられた者とするはずの御言葉が私たちの中で活かされず、そこに関しては悪魔の完全勝利ということになってしまいます。

 

そして三つ目の点としては、イェスの話が弟子たちにとって分かりにくいものが多かったことも事実です。逆説的にこれがわかるのが、ヨハネ16:29〜30です。

弟子たちは言った、「今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。あなたはすべてのことをご存じであり、だれもあなたにお尋ねする必要のないことが、今わかりました。このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」。

 

普段から弟子たちもイェスの話がわかりづらく、イライラしていたことがうかがえます。しかし、イェスの話がわかりづらいとすれば、それはある程度仕方のないことです。なぜなら、イェスが語られた言葉の目的は、「弟子たちにとってわかりやすい」が最終目的ではなく、「全ての時代の全人類の道の灯になる」ことだったためです。私たちにとっても、わかりづらい話しはスルーしてしまいやすいところがあります。しかし、そこは食い下がって理解につなげることができると、大きな力になります。

 

このように、私たちがついついやってしまういくつかのことが、御言葉に対する不理解を私たちの中で定着させ、いざというときにその御言葉が私たちの力にならない、正しく言動を導けない、というようなことにつながってしまいます。私たちは、イェスの復活に関しては歴史記録があるために手に取るようにわかるかもしれませんが、たとえば黙示録のような終末予言に関してはどうでしょうか?わかりづらいと思う箇所でも、直視したくないと思う箇所でも、感謝して自分のものとして受け入れるならば、いざというときに私たちの力となるでしょう。

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