八王子バプテスト教会通信

7月4日のメッセージ 2021年7月4日

「良い模範」

おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。

ピリピ2:4〜9

 

前回の終わりに、自分の「あるべき姿」のイメージができているだろうか?ということについて考えました。信仰だけでなく、様々な面において、成功した自分、完成された自分のイメージを持つことは、私たちにとって簡単なことではありません。スポーツ合宿や学習塾では、「成功した自分のイメージを持つように」と言われますが、「うまくいくといいな」的なイメージしか持てないのがほとんどの人ではないでしょうか。

 

そのため、自分のイメージというよりは、成功した人を目標にするとか、見習うことで成功をおさめる人も少なくありません。子供の頃から「絶対あの人のようになってみせる」と憧れて突き進んでいくならば、仮に大成功しなくても、正しい方向に成長するでしょう。なぜなら、本当にその人を模範にしていくのであれば、当然、その人がどのような練習や訓練をしてそのようになったのか、ということも調べるでしょうし、そのような地道な努力も重ねるでしょう。言うまでもなく、何かしらの実を結びます。

 

しかし、模範にする人がすごければすごいほど良い、というわけではありません。あまりにも自分とかけ離れて輝かしい偉人と自分を比べても、どこも共通点がないことに気付いて挫折するかもしれません。またかけ離れた能力がある人が良い模範のなって次世代の人材を上手に育てることができるとは限りません。

 

私が小学生だった頃、野球の巨人軍に長嶋茂雄という、物凄い選手がいました。三塁を守れば、「鉄の壁」と呼ばれるほど打球を全く通さない守備を貫き通し、打席に立てば、必要に応じてタイムリーでもホームランでも打てました。国民からは「ミスター・ベースボール」の愛称で親しまれ、今では単に「ミスター」というだけで、誰のことがみんなわかります。選手引退後、彼は巨人軍の監督に就任しましたが、お世辞にも良い監督とは言えませんでした。最大の理由は、彼は一般の選手たちの気持ちも能力もわからなかったことです。自分ではがむしゃらに訓練して、いつでも必要とあらば結果を出せたのですが、結果を出さなければならない時に緊張で結果が出せない選手たちの気持ちもわかりませんでしたし、どのように采配を振るえば各選手の能力を最大に引き出せるのか、掴めずにいたのです。

 

また、アメリカの野球史上最も偉大な選手と言われるベーブ・ルースは、天才的な投手でありバッターでもありましたが、才能がありすぎるために練習よりも飲酒に時間を費やすようになってしまいました。一晩飲み明かし、翌日の試合が始まる頃には残酒・二日酔いの状態で球場に現れます。最初のうちはダグアウトの端でゲーゲー吐いていますが、そのうちに酒が抜けて、そこからは相手ピッチャーが何を投げて来ても柵越え、と本領発揮します。そのような彼を見て、「どんなに努力しても天才には敵わない」と、やる気を失った若手選手も多かったそうです。彼はファンの目には大スターでしたが、若手選手からすれば決して見習うべき模範ではありませんでした。

 

さて、野球の話から聖書の話に戻します。本日の最初の聖句から、今日のテーマは「私たちの模範はイェス」ということになりますが、そのイェスについてこのように書いてあります。

 

そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。

ヘブル2:17〜18

 

この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。

ヘブル4:15

 

イェスは、私たちの気持ちや弱さを思いやることができない天才的な逸材ではなく、33年間私たち人間とともに生き、歩み、酸いも甘いも知り、その立場からこそ、私たちのあがない主になられたのです。私たち一人一人を適材適所で、どこに用いれば良いのか、よくご存知です。私たちにとって最高の「監督」であり、最高の模範です。

 

ただ、イェスは人となられた神であるため、私たちとは多少異なる点もあります。何から何までイェスと同様に振る舞っていたら、おかしなことになってしまいます。実際、私が過去に知っていた牧師の中で、こう言う人がいました。イェスがお宮で両替商をムチで追い出し、台をひっくり返したシーンに憧れ、これを地で生きたような人でした。生涯、両替商の台をひっくり返し続けたような人でした。御国に入ったら、何を一番何をしたいかと聞いたら、「鉄の棒で諸国を治めること」だそうでした。イェスを間違った形で模範としたことの良い例です。では、私たちは神なるイェスをどのように見習えば良いのでしょうか?

 

一見、イェスは多くのところでは私たちとかけ離れすぎで模範にならないようにも思われがちです。例えば、イェスは口で過ちを犯すことはありませんでしたが、私たちは口で過ちを犯します。確かにそうですよね?しかし、イェスは口で過ちを犯す能力がなかったのではなく、そうすることがないように、父との祈りの時間を長く持っておられたのです。そう考えると、確かにイェスの生き方は私たちの模範となるものです。

 

あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。

Iペテロ2:21

 

そこで、今日はどのような点で私たちがイェスを模範とすべきか、を見ていきたいと思います。誰かを模範として見習うということは、その人の姿に変えられていくということでもあります。

 

1. イェスは何よりも父を重要視し、私たちにも同様の姿勢を求めます。

 

わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。

ヨハネ5:30

 

私たちは一般に、「私は正しい」という人の言葉を傲慢に捉えます。「イェスは偉いからそういう言い方はできても、私は偉くないからそれはできない」と。しかし、イェスがご自分の言葉の根拠にされているのはご自身ではなく、父の意思に従っている、ということでした。

 

わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。

マタイ10:37〜40

 

イェスは常に、自分が父の意思に完全に服従していることを強調されました。それは、私たちに対するメッセージです。父と対等であったはずのイェスがこの地上で人として生きるためにそうされたのであれば、私たちがそうしないわけにはいきません。私たちは日常的にも、また人生の大きな岐路においても、判断や決断をしなければなりません。その中において、仮に自分にとって不利になろうとも「天の父は何を望んでおられるのだろうか?」ということを考えて決めるならば、私たちはイェスの模範に従って生きていることになります。

 

2. イェスは人にどう思われるかより、ことの本質を重要視されました。

 

「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。

ルカ20:46〜47

 

もし、モーセの律法が破られないように、安息日であっても割礼を受けるのなら、安息日に人の全身を丈夫にしてやったからといって、どうして、そんなに怒るのか。うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい。

ヨハネ7:23〜24

 

エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。

イザヤ11:1〜4

 

私たちがそのように生きることは「おそれおおい」と思われるかもしれません。イェスは偉大なお方だったためそのようにされたが、私はそうではない。しかし、どうでしょう?それは本当に謙虚になっている姿勢から出る発想でしょうか、それとも「出る杭は打たれる」を避けるための保身から出る発想でしょうか?仮に後者であったならば、私たちは裁きを免れません。というのは、私たちはイェスの働きの同士、イェスと共同の相続者なのです。その中において自分の社会的立場や保身を最重要視していたならば、それはユダのような裏切りです。

 

3. イェスは、あらゆる人に心を配られました。

 

『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

マタイ5:43〜47

 

それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

マタイ9:10〜13

 

私たちは、確かにイェスの時代のイェスの立場とは大きく違いますが、ここのイェスのことがでの、「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、勉強しなおして来い、という言葉は私たちにとっても同様に重要です。自分を嫌っている人や、自分が社会的に軽蔑する人に対しても、義を曲げることなく慈しみを施すことの重要性は今でも変わりません。

 

このように見ていくと、私たちがイェスとの共同作業者として生きていくために、模範とすべきところがいくつもあることに気づきます。他にどのようなものがあるのか、この一週間、考えましょう。そして、私たちがそのように生きるために、神から与えられた御言葉、「預言」がいかに大切であるのか、気づくはずです。

 

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

IIコリント3:18

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