八王子バプテスト教会通信

2月21日のメッセージ 2021年2月21日

今日の反面教師の先輩は、あまりにも有名なサムソンです。まず、士師記の13〜16章をお読み下さい。

 

話に入る前に、抑えておきたい事実がいくつかあります。ひとつは、サムソンの体格です。聖書には、特に何も書かれていません。歴史的に西洋の絵画には、筋肉ダルマの様な形で、いかにも「怪力男」の様子で描かれていることもあります。しかし、これには問題があります。なぜならば、周囲の人々は彼の力の源が何であるのか、不思議でなりませんでした。筋肉の塊であれば、その筋肉が彼の力の源だ、と誰もが思うでしょう。しかし、それが無いことを考えると、サムソンは少なくとも大して体格が良い訳ではなかったことが伺えます。

 

また、サムソンは神から命じられての生まれながらのナジル人でした。通常、ナジル人は成人が、限られた期間、請願を立てるためにすることでした。聖書には、生まれながらのナジル人は三人しか記載されていません。それはサムソン、サムエル、そしてバプテスマのヨハネです。サムエルとヨハネは自分たちに与えられた責任を全うしましたが、サムエルは全く違いました。ただ、神はサムエルを通してもご自分のご計画を実行されました。

 

サムソンは、他の裁き司たちとは全く違う、怪力というものを与えられました。それは、神がサムソンを使ってイスラエルをペリシテ人から救済する目的があったからです。一方、サムソンは、今まで見た来たミカやエフタの様に、神のことをよくわかっていなかった訳ではありません。両親は至って敬虔でしたし、本人も自分に与えられた賜物を守るためにはルールをしっかり守りました。はちゃめちゃな女ったらしであっても、酒には一切手をつけませんでした。自分にとって好都合なものは守りましたが、神の望む生き方に沿って生きようとする決意が微塵も見受けられません。

 

こうみると、サムソンと私たちとは、時代背景といい、与えられた使命といい、私たちとはあまりにも違いすぎて何の参考にもならない様に思えてしまいます。しかし、根底にあるのは、時代背景や個人に関係なく、普遍的に存在する、人間と神の関係です。

 

ローマ6:12〜13にこう書いてあります。

だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。

 

私たち一人一人がどんなに弱そうに思えても、私たちが自分を神の想いにゆだねたとき、神は無限の働きをすることができるのです。なぜなら、働くのは私たちではなく、神だからです。私たちが立派なクリスチャンを見たときに、その人そのものが立派なのではなく、その人が自分を神にゆだねて神がその人の中で働いていることを覚えなければなりません。そうしなければ、実際に働いている神を無視して人を崇めることになってしまいます。

 

また同様に、私たち一人一人がどんなに弱そうに思えても、私たちが自分を肉の想いにゆだねたとき、悪魔は無限の働きをすることができるのです。なぜなら、私たちが単に自分のやりたい様にやってわがままに生きている様に見えても、実はそこに悪魔が働いているのです。ただ、神は最後にきっちりご自分に栄光を受けます。私たちに対する裁きを通してであっても。

 

こう考えたとき、肉の思い、つまり私たちの生まれながらの「自然体」に従って生きるのか、それを捨てて神の想いに従って生きるのかの選択肢は、サムソンの場合も私たちの場合も大きくは違わないのです。誰でも、他人の置かれている場を考えて自分の選択をすることはできず、自分の置かれている場でしかこの選択をすることはできません。

 

サムソンの終わり方は残念でなりません。サムソンが生涯を神に捧げて生きたなら、一体どの様なことを達成できたのか、自分や周囲にどの様な祝福をもたらしたのか、見たかったと思います。しかし、神に従うことは、出家するとか、立派な人間になることではなく、今自分が置かれている場で、神の祝福の「とおりよきくだ」でいることです。本当に神の祝福を受ける覚悟を、私たちはできているでしょうか?

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