八王子バプテスト教会通信

2月7日のメッセージ 2021年2月7日

「すべてカナンのもろもろの戦争を知らないイスラエルの人々を試みるために、主が残しておかれた国民は次のとおりである。これはただイスラエルの代々の子孫、特にまだ戦争を知らないものに、それを教え知らせるためである。すなわちペリシテびとの五人の君たちと、すべてのカナンびとと、シドンびとおよびレバノン山に住んで、バアル・ヘルモン山からハマテの入口までを占めていたヒビびとなどであって、これらをもってイスラエルを試み、主がモーセによって先祖たちに命じられた命令に、彼らが従うかどうかを知ろうとされたのである。しかるにイスラエルの人々はカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのうちに住んで 彼らの娘を妻にめとり、また自分たちの娘を彼らのむすこに与えて、彼らの神々に仕えた。こうしてイスラエルの人々は主の前に悪を行い、自分たちの神、主を忘れて、バアルおよびアシラに仕えた。そこで主はイスラエルに対して激しく怒り…」

(士師記3:1〜8)

 

このような形でイスラエルは何度も何度も主に背き、罰を受けては助けを求める、といった歴史を繰り返して行きます。彼らの置かれていた状況というのは、私たちとは大きく異なりますが、そこに働く原理は、実は今日の私たちとほぼ変わらないものです。このようなことをしてしまう心理と、それが生む結果とを、今日考えてみたいと思います。

 

まず、イスラエルの人々はカナンの地の住民たちと和睦したり、共存したりすることを禁止されていました。それは、イスラエルが特殊な働きをする特殊な存在となるためでした。

 

「あなたがたはあなたがたの神、主の子供である。死んだ人のために自分の身に傷をつけてはならない。また額の髪をそってはならない。あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。忌むべき物は、どんなものでも食べてはならない。」

(申命記14:1〜3)

 

このように、彼からは食べるもの、衣服、髪型など、周囲の民族とは異なるものを要求されました。周囲とは異質な存在となり、神の栄光を現すためです。しかし、実際に彼らがやっていたことを見ると、神の教えは全く守らず、周囲の人々に溶け込んでしまい、役割を全く果たせなくなってしまっていました。どういうことでしょうか?

 

ひとつ、ちょっと考えればわかる原理があります。大勢の中で一人だけ変わっていたら、人間はどう思うでしょうか?自分だけ浮いて嫌だな、みんなと同じになりたいな、という心理が働きますね。私も、昭和40年代に日本の小学校で、学年にただ一人の外国人だったので、その疎外感はよくわかります。なぜ自分は周囲と違うのか?という疑問の中で育ってきました。そしてイスラエルの人々は、神の教えのもとでの生き方をとてつもなく「ダサい」と感じ、周囲の民族に対する熱烈な「憧れ」を持ってしまったのです。

 

その結果どういうことが起きたのでしょうか?士師記だけではなく旧約聖書のいたる所に、何度となく繰り返された惨事が記されています。例えばIサムエルにおいて、イスラエルは王を立てて欲しいと願い出て、神を怒らせます。そのため、神は彼らにサウルという反面教師を初代国王として与えます。

国王を望むこと自体、別に悪いことではありません。実際、アブラハムの子孫から王たちが起こされることを主がアブラハムにもヤコブにも約束されました。問題は、彼らの姿勢でした。

 

ところが民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで言った、「いいえ、われわれを治める王がなければならない。われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」。

(Iサムエル8:19〜20)

 

そして他の国々のようになることによって、当然、他の国々に感化され、影響を受け、同化されていってしまいます。

 

さあ、このシリーズの一回目の反面教師は、ミカという名前の男性です。このシリーズでは歴史的順序に関係なく、テーマごとに個人を数名見て行きます。少々長い箇所ですが、ここで士師記の17章〜18章をお読みください。

 

さて、ここに書かれている出来事は、神の律法を受けた民族のものとは決して思えないものです。偶像を作って安置し、レビびとを雇い入れたから神は私を祝福してくれるはず?神の言葉を知っている私たちからすれば考えられないことですが、神の教えを忘れてしまった彼らにとっては、自然なことだったのです。

 

これが、周囲と同化することの恐ろしさです。「ありえない」ことが1〜2世代後には当然のことになってしまうのです。そうすると、私たちは自分に与えられたはずの任務が果たせなくなってしまいます。

 

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。」

(Iペテロ2:9)

 

さて、日本は福音を述べ伝え難い国です。それは私も肌で感じてきました。最大の理由は、キリスト教に対する反感や迫害があるからではなく、いくつもの宗教を多少平等に扱い、いくつもの宗教に同時に関わりたいという日本人の宗教観にあります。キリスト教を信じるのであれば、神仏や先祖崇拝を切り捨てなければならないというのは、多くの人に追ってとても高いハードルなのです。

 

それと同時に、キリスト者の中からも次の世代をこの世と同化させる動きが歴史的にありました。今ではある程度状況が変わってきているのかもしれませんが、戦後宣教師たちが見た日本のクリスチャン社会において、信じられないものがふたつありました。

・子供を教会に行かせない、あるいは行くかを子供の選択に委ねる

・子供がノンクリスチャンと結婚することを認める

私も子供の頃、このような状況に対して宣教師たちが激怒していたシーンを何度も見てきました。しかも、子供たちに対してこのようにする理由というのは、「自分の宗教を子供に押し付けるのは良くないから」というのです。

 

私たちクリスチャンは、地の塩、世の光という、この世とは異質なものとして、この世に良い影響を与えなければならない存在です。子供たちも当然、そのように育てなければなりません。しかし、自分を贖ってくださり救ってくださった主の十字架を「宗教」として片付け、他の信仰と同列に置いた時点で、神はもはやそういうところでの働きができなくなってしまうのではないのでしょうか?

 

では、アメリカの教会ではきちんとした信仰が守られているかといえば、ほとんどのところでは全くそうではありません。特に、今のアメリカを席巻しているメガチャーチのカルチャーは、金持ちになりたい、有名になりたいという肉の想いを、神は喜んで満たしてくれるはずだ、あるいは神は私の政治的思想をサポートしてくれるはずだ、というものです。やはり、「宗教」というものは、神が私を祝福してくれるためにある、という発想です。世界中どこでも、誰でも簡単に行きついてしまう、肉の人の発想です。

 

当然、現在の民主主義においてはどの宗教にも平等な立場が与えられています。民主主義国家の一員としては、その仕組みを尊重しなければなりません。しかしそれと同時に、人類を救いうる名は、天の下にはキリストの名の他にはない、ということも事実としてわきまえておく必要があります。だからと言って周囲の人にとって上から目線で接することは絶対しません。良い隣人であり謙虚な姿勢で接することを通して、福音の証しびとになるのです。ただ、決して同化しないことです。

 

わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた、「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。」

(黙示録18:4)

 

私たちが裁きの御座の前に立つ時、それがどんな状況であるか、私たちには見当もつきません。しかし、私たちが判断される基準は、どれだけ周囲と同化したかでもなければ、また逆にどれだけ「宗教」の名の元に周囲を疎外したか、でもないことだけは確かです。どれだけキリストの言葉による地の塩、世の光であったか、ということでしょう。

八王子バプテスト教会通信-過去の投稿リスト