八王子バプテスト教会通信

5月2日のメッセージ 2021年5月2日

「イェスの復活・その後:(4)昇天間際の11弟子」

 

テオピロよ、わたしは先に第一巻を著わして、イエスが行い、また教えはじめてから、お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。

使徒行伝1:1〜11

 

イェスが復活してからすでに40日経っていました。その間にイェスは何度も彼らに会い、必要に応じて叱責したり励ましたりしていました。そして最後に彼らを集め、天上天下の一切の権限を委譲された立場から、至上命令を言い渡しました。教会を世の中に送り出す権限を与えたのです。これから教会がイェスの代わりに働き、祝福と患難の中で全世界に福音を携え行きます。

 

しかし、この権限を受けた彼らは、イェスに質問します。

「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」

イェスが今からイスラエルを復興しようとしているとは、何も言っていません。むしろ、それ以外のことばかり言われています。

 

しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。

ルカ21:12

 

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。

ヨハネ14:1〜3、26〜30

 

そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。

マタイ24:4〜14

 

イェスは繰り返し、ご自分の十字架についてだけではなく、弟子たちもイェスから引き離され、苦しみを受けなければならないと教えています。これは、イザヤ60や65に見られる、復興されたイスラエルではあり得ないことです。

 

彼らは、イェスの十字架や復活の教えを何度も聞いていながら理解できていなかったことは前回までの中で考えました。彼らはその後、学習したはずなのに、なぜ同じような勘違いをしてしまったのでしょうか?

 

その答えも前回の話とかぶるのですが、彼らの宗教的民族性、ユダヤ人としての自己アイデンティティーの中にあります。そしてこれは弟子たちに限ったことではありませんでした。イェスが活動を始めたとき、当初は多くの人がイェスがメシアであると確信して付いて回りましたが、イェスの教えが自分たちのメシア像と異なることに気づくと、あっさりイェスを棄てました(ヨハネ6章をお読みください)。宗教的なリーダーたちも、律法と預言者からイェスがメシアであることを理解する知識を十分に持っていたはずでしたが、イェスの言動が自分たちのメシア像と異なるこということで、冒涜者として処刑することにしたのです。かのバプテスマのヨハネでさえ、「大食漢の大酒飲み」と言われたイェスの行動が自分のメシア像とあまりにもかけ離れていたので、「本当にこの人でいいのだろうか」と疑いを抱くようになってしまいます。

 

このように、私たちが勝手に持ってしまった「イメージ」が、いとも簡単に神の教えより強くなってしまい、私たちがどのような御言葉を読んでもそれをねじ曲げてしまう強力なフィルターになってしまいます。これは民族や国の中で起こり得ますし、宗派の中でも起こり得ます。「文化」や「カルチャー」と言われるものが存在しうる全てのところで起こり得ます。私たちバプテストも、教理がありますし、カルチャーもあります。教理は命がけで守らなければなりませんし、この教理を守るために、暗黒時代において5000万人もが殉教しました。ところがカルチャーは別です。バプテストのカルチャーにはいいところもありますが、命をかけて守るべきものとは限りませんし、却って御言葉を見失うきっかけにすらなりかねません。しかし、私たちの精神に何よりも訴えて私たちを捕らえるのが、私たちの育ったこのカルチャーです。つまり、それは「宗教」、言い換えれば「神の教えのふりをした肉の思い」なのです。

 

では、私たちはどうすれば良いのでしょうか?根本的な解決から言えば、そのようなものはありません。私たちは弱い肉に過ぎないからです。(詩篇78:39〜40)しかし、私たちは肉に過ぎないのであれば、肉に過ぎないということを自覚して、御言葉と聖霊の導きに自らを委ねることはできます。弱いという認識が、従う心を生むのです。

 

神には神のご計画があります。私たちはそれを全て知ることはできませんし、全て知ること自体私たちの領分ではありませんが、自らを主に委ねる心があれば、主に用いられることはできます。前々回に引き続き、「主よ、私はここにおります。私を遣わしてください。」

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