八王子バプテスト教会通信

11月20日のメッセージ 2022年11月20日

み言葉を託された者:イザヤ(2)

アモツの子イザヤがユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世にユダとエルサレムについて見た幻。天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、主が次のように語られたから、「わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた。牛はその飼主を知り、ろばはその主人のまぐさおけを知る。しかしイスラエルは知らず、わが民は悟らない」。ああ、罪深い国びと、不義を負う民、悪をなす者のすえ、堕落せる子らよ。彼らは主を捨て、イスラエルの聖者をあなどり、これをうとんじ遠ざかった。あなたがたは、どうして重ね重ねそむいて、なおも打たれようとするのか。その頭はことごとく病み、その心は全く弱りはてている。足のうらから頭まで、完全なところがなく、傷と打ち傷と生傷ばかりだ。これを絞り出すものなく、包むものなく、油をもってやわらげるものもない。あなたがたの国は荒れすたれ、町々は火で焼かれ、田畑のものはあなたがたの前で外国人に食われ、滅ぼされたソドムのように荒れすたれた。シオンの娘はぶどう畑の仮小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように、ただひとり残った。もし万軍の主が、われわれに少しの生存者を残されなかったなら、われわれはソドムのようになり、またゴモラと同じようになったであろう。あなたがたソドムのつかさたちよ、主の言葉を聞け。あなたがたゴモラの民よ、われわれの神の教に耳を傾けよ。

イザヤ書1:1〜10

 

今まで数名の預言者から北のイスラエルの状況を見てきました。南北分断の時点で、国王となったヤラべアム1世がエホバ崇拝を廃止し偶像崇拝を国境に据えただけあって、当然のごとくひどい有様でした。霊的にも道徳的にも完全に破綻していたことは今まで見てきた通りです。それに対して、形だけでもエホバ崇拝が行われているユダは、まだいくらかでも良いのでは?と思われるかもしれません。

 

そうとも限らない、というのが今日の入り口のポイントです。上記のイザヤ書のオープニングでも、ものすごい言われ様です。ソドムとゴモラに例えられて糾弾されています。形だけエホバ崇拝が行われていても、役に立たない様ですね。

 

実は、この時代になると、北のイスラエルでもエホバ崇拝が幾分かでも復活しているのです。アハブとイゼベルが広めたバアル崇拝を、アハブの子ヨラムが廃止するのです。さらに、その上にエホバ崇拝の再開に舵を切ります。ただし、これは全ての偶像を無くしてエホバのみに従うという方向性からは程遠く、ヤラべアム1世がベテルとダンに据えた金の子牛と並べてエホバも崇拝しようと考えたのです。お寺にも行きながら「日本人なら神道」程度のノリで、「イスラエル人ならエホバ神」の様な感覚だった様です。これでは主が喜ばれるはずもありません。

 

南のユダも、礼拝が主に歓迎されていません。

 

主は言われる、「あなたがたがささげる多くの犠牲は、わたしになんの益があるか。わたしは雄羊の燔祭と、肥えた獣の脂肪とに飽いている。わたしは雄牛あるいは小羊、あるいは雄やぎの血を喜ばない。あなたがたは、わたしにまみえようとして来るが、だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか。あなたがたは、もはや、むなしい供え物を携えてきてはならない。薫香は、わたしの忌みきらうものだ。新月、安息日、また会衆を呼び集めること――わたしは不義と聖会とに耐えられない。あなたがたの新月と定めの祭とは、わが魂の憎むもの、それはわたしの重荷となり、わたしは、それを負うのに疲れた。あなたがたが手を伸べるとき、わたしは目をおおって、あなたがたを見ない。たとい多くの祈をささげても、わたしは聞かない。あなたがたの手は血まみれである。

イザヤ書1:1〜15

 

ユダは色々な礼拝を規定通りに行なっている様ですが、主からすると「だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか」と言わしめる内容なのです。イザヤ書の核心に入る前に、今日はここで、では主の喜ばれる礼拝とはどの様なものなのか、について考えたいと思います。

 

まず、この箇所の中で主が問題にされている点がふたつあります。

・「むなしい供え物」

・「手は血まみれ」

 

つまり、罪のある状態で礼拝に参加しているということです。確かに、ダビデも言いました。

 

もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう。

詩篇66:18

 

また、供え物が「むなしい」というのは、形は整っているが、内容が伴っていない、ということです。そもそも、旧約における供え物、つまりいけにえとは、「罪ある者のために罪なき者が血を流す」こと、つまりキリストの十字架の「予形」です。相手が家畜とはいえ、自分の身勝手な罪のために何の落ち度もない生命がたたれなければならないことに対する後悔と自責の念に駆られていなければならないのに、供え物のその様な「本質」がなく、外見上の形式しか残っていないのです。

 

では、どうすればいいのでしょうか?ここからがイザヤ書の特徴的な部分です。どうすれば良いのかが、具体的に記されているのです。どの様にすれば主の救いが受けられるのか、具体的に記されているのです。「イザヤ」という名前自体、「主は救う」「主の救い」という意味です。旧約の人名で最後に「ヤ」がつくものが多いですが、これは「ヤハウエ」、つまり「エホバ」のことです。ちなみに、「オバデヤ」とは「主のしもべ」という意味、この点はいずれとりあげます。

 

さて、イザヤ1章に示された対処法です。

 

あなたがたは身を洗って、清くなり、わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ、善を行うことをならい、公平を求め、しえたげる者を戒め、みなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ。

イザヤ書1:16〜17

 

つまり、主に受け入れられる礼拝をしたいのであれば、礼拝時以外の日常生活を清いものにしなさい、ということです。こう考えると、私たちの生活と礼拝の関係にこの話がどれだけ近いのか、気付きます。私たちが礼拝に参加するというのは、日常の喧騒を離れて清められるために参加するというのは自分たちの身勝手な思い込みで、実は礼拝というのは、私たちの一週間の労働の中で実らせた清い実を携えて参加するものなのです。「労働の中で実らせた清い実」というのは、宗教活動的なものということではなく、私たちが勉学や労働をする中で、どの様な信仰心とどの様な言動で携わったかということです。

 

聖歌320に、この様な下りがあります。

「主に頼りつつ、鎌を手にし 祈り心に、櫂(かい)操ろう」

 

私たちが日常の生活の中でどの様に主の御姿を現すかこそが、礼拝に携えて来るべき実であり、「一週間の俗の生活でくたびれたので、清められにきました」というのでは、主からすると本末転倒なのです。確かに、私たちは礼拝で癒され、清められるという側面はあります。ただ、主は礼拝のあるべき姿を求められるのは、今も昔も変わりません。様式は、昔とはずいぶん変わりました。私たちの今の礼拝は、かなりカジュアルなものです。しかし、その本質は、今も昔も全く変わっていません。私たちの罪のおぞましさも、罪なき者が罪ある者のために血を流さなければならなかった点も、全く変わっていません。

 

しかし、私たちは確かに罪があるでしょうが、この時のイスラエルやユダの人々の様なひどい罪ではないはず?一緒にされては困る?というのが現代人の発想かもしれませんが、あくまでも一緒です。少しでも違うと思ってしまったら、まさにイェスの例え話に出てくるパリサイ人の祈りの精神になってしまいます。

 

自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

ルカ18:10〜14

 

実際に、旧約の律法の中でも、どの様な些細な罪であってもいけにえが要求されたのはこのためです。血を流す必要がないほど小さな罪などない、ということを明白にするためです。私たちの過去の罪が主の十字架によって清められたからと言って、私たちの今日の罪が主の十字架にのしかからないというわけではありません。

 

私たちは普段は俗な思いで生活をしておきながら、週に一度の礼拝参加でそれが全てチャラになる、という発想ではあまりにも都合が良すぎます。イザヤの1章では、主は引き続き、彼らが罪を離れて生活を清めるプロセスをこの様に述べています。

 

主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

イザヤ書1:18

 

私たちは、自分の力で罪の許しを勝ち取ることはできません。自分の力で救いを勝ち取ることはできません。それは主の血の力を持ってしか為し得ないことです。しかし、罪を離れること、全てのことに感謝と善意を持って取り組むこと、これはできますし、しなければなりません。私たちはこの様に生きた一週間の生活の実を携えて礼拝に臨むべきです。つまり、祝福される礼拝のためには、「礼拝をどうするか」ではなく、「礼拝以外の一週間をどうするか」肝心なのです。そして、何よりも大切なことが、もうひとつあります。

 

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。

ヨハネ4:23〜24

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