八王子バプテスト教会通信

4月17日のメッセージ 2022年4月17日

復活祭メッセージ「よみがえりの希望」

 

週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。ところが、石が墓からころがしてあるので、中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。

ルカ24:1〜7

 

今日は復活祭、世間でいうところの「イースター」です。復活祭は文字通りイェスのよみがえりを記念するものですが、イースターは元々キリスト教とは無関係の、東方の豊饒(ほうじょう)祭でした。春に新しい生命の不思議を祝うものでした。それがなぜイェスのよみがえりとつながったのでしょうか?

 

昔、カトリック教がほぼ全世界に広まることができたひとつの理由は、偶像崇拝がなされている地に入るとき、その偶像を禁止礼拝するのではなく、聖書の何かにすり替えてそのまま守り続けさせるということでした。イェスの誕生を祝うクリスマスも、元々は古代ローマの日迎え祭でした。

 

イェスのよみがえりを祝う復活祭と、古代のイースターの祭は、どちらも新しい命を祝うものですが、決定的な違いがひとつあります。それは、復活祭が永遠の命を祝うものであるのに対して、古代のイースターの祭はこの地上で繰り返される生命のサイクルを祝うものなのです。このふたつの考え方の違い、そしてクリスチャンが取るべき姿勢について、考えさせられる出来事が最近ありました。ウクライナでの戦争です。

 

あの戦争が始まったときは、場合によっては一気に第三次世界大戦になだれ込むのかもしれない、という心配もありました。おそらくそういう事にはならずに、何らかの落とし所を見つけるのでしょうが、日本で安穏と暮らしている私たちでもいつ戦禍に放り込まれてもおかしくないことを示された一瞬でした。仮にそうなったら、まず、大恐慌が世界的に起こるかもしれません。私たちが仕事も収入も失い、住むところも失い、食にも困窮するようになるかもしれません。戦争で石油が入ってこなければ、そのうち電気も水道も来なくなるでしょう。また、戦争となれば、男性達は徴兵に駆り出され、女性たちは他の仕事に駆り出され、家族が散り散りになり、この地上では二度と会えないということもありうるでしょう。そうなれば、私たちは自分が置かれたところで主の証を携えて生きてゆき、この地上での役目を終えたときには愛する主のみもとに帰り、そこで再会する事になるでしょう。

 

何とも地獄絵図のような話だと思われるかもしれませんが、実はこれが「世の常」なのです。何度も起きているだけではなく、頻繁に繰り返されている状況なのです。20世紀だけで世界大戦が二回もあり、数知れない人々が翻弄され、命を落としました。ではそれまでのヨーロッパは平和であったかというと、それどころか、何世紀もの間、戦争に明け暮れていたのです。アジアも似たようなものでした。現在はウクライナの戦争ばかりがニュースに登場しますが、ミャンマー、イエメン、リビア、シリアなどでも紛争や民族浄化のようなことが今この瞬間も行われています。「人類の歴史は血というインクで綴られている」と言われる通りです。

 

また、私たちを翻弄するのは、戦争ばかりではありません。戦争に加え、疫病や、飢饉のような自然災害も繰り返し起こり、人々の平穏な生活を破壊してきました。

 

日本の歴史の中では比較的最近の江戸時代においても、飢饉は繰り返され、特に莫大な被害をもたらした飢饉が260年の間に4回もありました。「江戸四大飢饉」と呼ばれています。疫病も繰り返し起こり、チフスやコレラで多くの人が命を落としました。これも「世の常」です。

 

せっかくの楽しいイースターのはずなのに、なぜこんなにも暗い話をするのか?実は、復活祭に非常に重要なポイントがあるのです。ヨーロッパでも、ペストのような疫病が何度も起きています。特に、17世期のロンドンのペストでは、わずか一年半でロンドンの人口の四分の一が死亡しました。このような疫病が起こるたびに、人々は疫病から逃れるために都会から田舎に疎開したにですが、皮肉な事に、これが疫病を全国に蔓延させる原動力になったのです。しかし、疎開しない人もいました。というのは、疎開する人々の多くは、病気であったり寝たきりで逃げることができない身内や家族を見捨てて疎開したのです。そのような人々に奉仕するために敢えてロンドンに残ったのが、ピューリタンやバプテストのような、「非国教徒」と呼ばれる人々でした。彼らは死ぬことが怖くなかったのでしょうか?怖くないと言えば嘘になるかもしれませんが、それまで散々迫害や弾圧のもとで生きてきた彼らは、目下の利得よりも遥かに大きな栄光を選択することも心得ていました。

 

国教徒の人々は、信仰を求められたことはほぼなく、体制に対する従順のみが求められてきました。それに対して、本当の信仰を持っていた人々は、よみがえりに対する希望を持ってこの世の中を生きていたのです。

 

わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。 こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。 「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。 それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。 すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

IIコリント4:8〜18

 

何かの大きな災害が起こると、私たち人間はそれまでは当たり前だと思っていた様々なものを失い、そこで初めて、それは当たり前のものではなかった事に気づきます。関東東北で大震災が起こった時、あまりにも多くの人が、あまりにも多くのものを一瞬で失いました。そいう時に私たちは思い出します。衣食住を含め、それらは私たちが主から日々借り受けているもので、いつまでも当然自分のものであると思い込んでいた自分が愚かであったと。それに対して、よみがえりに対して希望を持って生きている人は、与えられているものが当たり前ではなく感謝すべき事であると考えるので、考え方や生き方が周囲の人々と少々変わってきます。与えられているこの世のもに対して無頓着であったりそれを否定するわけではありません。一過的なものだからと言って軽視するのではなく、与えられているものとして感謝していただき、自他のために使います。感謝のうちに日々を過ごし、今日明日だけのためではなく、御国のためにも生きています。

 

よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。 あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。 むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。

ヤコブ4:13〜15

 

 

もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。

IIコリント15:19

 

そもそも、私たちが持っている全てのものが消え去るのは、戦争や災害によるものだけではなく、主の再臨のときにも同じことが起こるのです。

 

しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。

IIペテロ3:10〜13

 

実際、私たちが主の祈りで「御国を来らせたまえ」と祈る時、このことをお願いしているのです。というわけで、私たちは、災害や戦争がない日常においても、キリストのよみがえりをこの身に負って生きているべきなのです。日常でできていないことが、いざというときに突然できるようになるはずがありません。クリスチャンと称していて、普段からこの世と同じ感覚で生活していたなら、それは女性たちが生きたキリストを、死者しかいない墓場で探すようなものです。私たちが命の主であるキリストに従っているのであれば、よみがえるべき者としての生き方を通して周囲にも伝わるはずです。

 

朽ちざる命を持つ我知らで

世人は我が身を愚かと笑う

消え去れ、地の富、名誉、楽しみ!

我が身は栄(は)えある国の民なり

聖歌199より

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