八王子バプテスト教会通信

4月4日のメッセージ 2021年4月4日

復活祭礼拝メッセージ「どの命?」

 

「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」

ローマ6:8〜11

 

復活祭の時期は、「命」がテーマになることが多いです。イェスはわたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。と言われました。そしてイェスが死に打ち勝ち、私たちのためによみがえられた、だから私たちも新しい命に生きることができる、というのが復活祭のメッセージです。しかし、これだけでは非常に漠然とした話で、どのように生きるべきか、というテーマにはつながっていきません。今日は、私たちには複数の種類の「命」があり、それぞれに対して異なる「救い」があることを考えていきましょう。

 

まず、私たち誰もが持っているのが、肉体の命です。私たちがこの地上で何をするにも、この肉体を通してでなければ出来ません。この肉体の命が終わってしまったら、私たちはこの地上では何もすることができず、この世から退場しなければなりません。ですから、この肉体の命の「救い」を考えるとき、それは「本来死ぬようなところを助けられた」とか、「重大な病気を癒されて治った」のようなことになります。

 

この肉体は一過的なもので、いずれ滅びる運命にあります。永遠のものではありません。生き返らされたラザロでも、いずれはまた死んでしまうしかありませんでした。だからと言って、この肉体を軽視するわけではありません。神様からお預かりした「聖霊の宮」です。お返しするときに、どのように用いたのか、言い開きをしなければなりません。

 

これと対照的なのが、私たちの魂の命です。私たちの魂は永久不滅の存在ですが、必ずしも「永遠の命」とは言えないのです。なぜなら、

 

「そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」

黙示録20:10〜15

 

つまり、永遠の命に入らない魂は、永遠の死に入らなければならないのです。非常に恐ろしいことですが、ここでも肉体の命と対照的な点があります。というのは、何らかの経緯で奇跡的に生命が救われたと言える人は、全人類のうち、わずかです。それに対して、全人類の誰であっても、永遠の命に入る方法が保証されています。それは、イェスの血による罪の許しを神に求めることです。数秒で終わるような簡単な祈りであっても、心の底から信じて願ったのであれば、永遠の死に向かうはずの魂が、その瞬間を境に永遠の命に入る魂とされ、この変化は決して元に戻ることはありません。

 

このふたつの命の間を取り持つのが、私たちの意識や精神が繰り広げる日常の営み、生活です(英語ではこれも「ライフ」です)。「心の命」とでも言いましょうか。この命は救われることがあるのでしょうか?あります。ただ、魂の救いが一瞬で終わるのに対して、これは一生かかるものです。

 

「すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」

IIコリント4:15〜18

 

私たちは徐々に、少しずつ、変えられていきます。少しずつ、主のみ姿に似たものとなるように。私たちのこの滅びる肉体に宿る、私たちの心の命が、肉の思いではなく霊の思いにしたがって生きることによって。こうして、私たちの永遠の魂を種のみ前に立つために整えているのです。

 

さて、わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。とイェスが言われたのは、どの命のことなのでしょうか?答えは、「どの命」というよりは、その全てにおいて、この地上から永遠の住まいに移る準備の長いプロセスにかかっている祝福であると、私は考えています。この世においてもあの世においても、この世のものとは異なる喜び、充実感、そして平安に満たされながら、あの世に旅立つにふさわしい性質に変えられていきます。ですから、3つとも豊かに与えられるのです。

 

ただ、残念なことに、この世の多くの人は、この3つの命の中で一番短命ですぐになくなってしまうものに、一番力を注いでいるのです。身体のトレーニング、美容、健康などに莫大なお金が使われています。このようなことを大切にするのは決して悪いことではありませんが、何よりも大切であるべきことは永遠の命であるのに、これがおろそかにされてしまっているのは何とも残念で悲劇なことです。イェスがご自分の死と復活によって私たちに与えてくださる「豊かな命」を存分にいただきましょう。

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