八王子バプテスト教会通信

12月5日のメッセージ 2021年12月5日

み言葉を託された者:サムエル(3)

 

サムエルは年老いて、その子らをイスラエルのさばきづかさとした。長子の名はヨエルといい、次の子の名はアビヤと言った。彼らはベエルシバでさばきづかさであった。しかしその子らは父の道を歩まないで、利にむかい、まいないを取って、さばきを曲げた。この時、イスラエルの長老たちはみな集まってラマにおるサムエルのもとにきて、言った、「あなたは年老い、あなたの子たちはあなたの道を歩まない。今ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」。しかし彼らが、「われわれをさばく王を、われわれに与えよ」と言うのを聞いて、サムエルは喜ばなかった。そしてサムエルが主に祈ると、主はサムエルに言われた、「民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである。今その声に聞き従いなさい。ただし、深く彼らを戒めて、彼らを治める王のならわしを彼らに示さなければならない」。サムエルは王を立てることを求める民に主の言葉をことごとく告げて、言った、「あなたがたを治める王のならわしは次のとおりである。彼はあなたがたのむすこを取って、戦車隊に入れ、騎兵とし、自分の戦車の前に走らせるであろう。彼はまたそれを千人の長、五十人の長に任じ、またその地を耕させ、その作物を刈らせ、またその武器と戦車の装備を造らせるであろう。また、あなたがたの娘を取って、香をつくる者とし、料理をする者とし、パンを焼く者とするであろう。また、あなたがたの畑とぶどう畑とオリブ畑の最も良い物を取って、その家来に与え、あなたがたの穀物と、ぶどう畑の、十分の一を取って、その役人と家来に与え、また、あなたがたの男女の奴隷および、あなたがたの最も良い牛とろばを取って、自分のために働かせ、また、あなたがたの羊の十分の一を取り、あなたがたは、その奴隷となるであろう。そしてその日あなたがたは自分のために選んだ王のゆえに呼ばわるであろう。しかし主はその日にあなたがたに答えられないであろう」。ところが民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで言った、「いいえ、われわれを治める王がなければならない。われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」。サムエルは民の言葉をことごとく聞いて、それを主の耳に告げた。主はサムエルに言われた、「彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ」。サムエルはイスラエルの人々に言った、「あなたがたは、めいめいその町に帰りなさい」。

Iサムエル8章

 

サムエルは年老いて、イスラエルをさばく任務を息子達に任せようとします。しかし、ここでサムエル一生の不覚が露(あら)わになります。子育てに失敗したのです。ちょうど、お師匠のエリのように。いわゆる「いい人」、本質的に従順で天真爛漫な人が陥りやすい罠です。それは、全ての人間に潜む罪のおぞましさに気づかず、それがないものと想定して、それを追い出すようなこともせず、漫然と子育てしてしまうのです。私もそのような性格の友人がいました。クリスチャン兄弟でしたが、人に対して悪い思いを全く抱かない、抱けないような優しい人でした。彼の子育ての持論は、「子供は放っておけばちゃんと育つんだよ」というものでした。彼は結局子育てをすることなく終わりましたが、それが良かったのかもしれません。聖書はこのように教えています。

 

愚かなことが子供の心の中につながれている、懲らしめのむちは、これを遠く追いだす。

箴言22:15

 

何もしなくても子供がきちんと育つという考え方は昔から存在しますが、これはちょうど、荒地に野菜の種さえ撒いておけば、雑草も生えず、害虫や害獣も来ず、立派な作物が獲れるはずだ、というのと同じです。ダビデ王もこの過ちを犯していますが、自分が子供をしつけなかっただけではなく、しつけようとする人を許しませんでした。その結果どうなったでしょうか?二度のクーデターが起き、愛する我が子が命を落とします。ダビデは嘆きますが、自分以外誰も責めようがありません。

 

その子ソロモンも、子育てに失敗します。レハベアムはクーデターは起こしませんでしたが、国を継ぐにあたって、長老達の意見に耳をかさず、同世代の若い意見を採用します。その結果、イスラエルの南北の分断は決定的になり、二度と統一されることはありませんでした。北の王になったヤラベアムは、万が一南北が融和するようなことがあれば自分の立場が危うくなると考え、絶対にそのようなことがないようにと、偶像崇拝を北の国教に据えたのです。それが、アッシリアによる北の国の解体の時まで続きました。

 

さて、今日はサムエルの失敗を通して子育てについて考えているかと思いきや、サムエルの失敗は私たち全てのクリスチャンに大きな警鐘を鳴らすものになっています。というのは、イスラエルの人たちは肉の思いから「王が欲しい」と言い出したのです。万軍の主が自分たちの王でありながらも、見かけとしては「ダサい」という自虐的な意識が強くありました。「周囲の国のように、王が欲しい」と言い出したのです。ちょうど小中学生が「みんなが持ってるのに私だけ持っていない」と親に詰め寄るような光景です。

 

本来ならばここで厳しく諭さなければならないサムエルですが、それができない理由があります。子供が真っ直ぐ育たず、賄賂を受け取って裁きを曲げるような、邪(よこしま)な大人になってしまっていたのです。だから、その点を指摘され、息子達を国のリーダーとして認めないから王が要ると言われたときには、言い返す言葉がなかったのです。実際、主もいずれはイスラエルに人間の王が立つことを想定していました。律法の中に、王を立てるときの規定があるのです。

 

あなたの神、主が賜わる地に行き、それを獲てそこに住むようになる時、もしあなたが『わたしも周囲のすべての国びとのように、わたしの上に王を立てよう』と言うならば、必ずあなたの神、主が選ばれる者を、あなたの上に立てて王としなければならない。同胞のひとりを、あなたの上に立てて王としなければならない。同胞でない外国人をあなたの上に立ててはならない。王となる人は自分のために馬を多く獲ようとしてはならない。また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。また妻を多く持って心を、迷わしてはならない。また自分のために金銀を多くたくわえてはならない。彼が国の王位につくようになったら、レビびとである祭司の保管する書物から、この律法の写しを一つの書物に書きしるさせ、世に生きながらえる日の間、常にそれを自分のもとに置いて読み、こうしてその神、主を恐れることを学び、この律法のすべての言葉と、これらの定めとを守って行わなければならない。そうすれば彼の心が同胞を見くだして、高ぶることなく、また戒めを離れて、右にも左にも曲ることなく、その子孫と共にイスラエルにおいて、長くその位にとどまることができるであろう。

申命記17:14〜19

 

サムエルがした失敗というのは、すぐに因果の形で跳ね返ってくるような、「けっちん食らう」ようなものではなく、後になって帰ってくるような、「悪魔に機会を与える」ようなものでした。罪を犯すことにより、自らのうちに弱みを作り、正しい行いが十分に行えないような制限を自分に課してしまったのです。

 

怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない。

エペソ4:26〜27

 

弱みを握られてしまい、クリスチャンとしてするべき行動が十分にできないことというのは、よくあることです。ダビデもそうでした。たった一度の出来心が、一生付き纏うのです。しかし、サムエルやエリの場合は、子育てに失敗した以外に、に特段責められる要素はありません。子供と言えども別人、神さえも介入しない人の自由意志を持った個人の心に対して、親はそこまで責任を取らされるのでしょうか?

 

確かに、そのような要素もあります。しかし、聖書はこうも教えています。

 

子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることがない。

箴言22:6

 

これは、申命記6章にあるように、常日頃言葉を持って子供に神の道を教えるだけではなく、自らの実践と体現をもって教え、さらにその子の生活の中て経験させて覚えさせるものです。しかし、忙しい親は、なかなかそこまで行き届かないのも、現実です。そうであっても、そのような思いで育てられた子は、仮に紆余曲折を経てであってもまた主に戻ることがよくあります。

 

私が知っているとある牧師は、一旦子育てに失敗しました。息子達に対して、厳しすぎたのです。子育てのひとつの不思議に、放任しすぎと、厳しすぎることが、同じような結果を生むというものがあります。というのも、いずれも、子供の側から見れば、「本当の自分を見てくれていない」という気持ちにつながっています。その牧師の息子達も一時は荒れて、教会にも寄り付かなくなりましたが、今では明るく日曜日の礼拝の司会をしている姿を見ると、心が暖まります。

 

私たち一人一人は、自分の人生さえ生きれば良いというものではなく、自分たちのコミュニティー、自分たちの住んでいる社会に対して、神の子として様々なプラスの影響を与えることを期待されています。人からも神からも。仮に結婚せず、また子供ができなかったにしても、社会の中で子育てをしている人たちがより良い環境で子育てができるように、様々な貢献をすることができます。クリスチャンとしてそうする上で、過去の罪のために良い働きができなくなるようなことがないように、日々自分の心を守りましょう。

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