八王子バプテスト教会通信

1月30日のメッセージ 2022年1月30日

み言葉を託された者:ダビデ(1)

 

サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。そしてサムエルは立ってラマへ行った。さて主の霊はサウルを離れ、主から来る悪霊が彼を悩ました。サウルの家来たちは彼に言った、「ごらんなさい。神から来る悪霊があなたを悩ましているのです。どうぞ、われわれの主君が、あなたの前に仕えている家来たちに命じて、じょうずに琴をひく者ひとりを捜させてください。神から来る悪霊があなたに臨む時、彼が手で琴をひくならば、あなたは良くなられるでしょう」。そこでサウルは家来たちに言った、「じょうずに琴をひく者を捜して、わたしのもとに連れてきなさい」。その時、ひとりの若者がこたえた、「わたしはベツレヘムびとエッサイの子を見ましたが、琴がじょうずで、勇気もあり、いくさびとで、弁舌にひいで、姿の美しい人です。また主が彼と共におられます」。そこでサウルはエッサイのもとに使者をつかわして言った、「羊を飼っているあなたの子ダビデをわたしのもとによこしなさい」。エッサイは、ろばにパンを負わせ、皮袋にいれたぶどう酒一袋と、やぎの子とを取って、その子ダビデの手によってサウルに送った。ダビデはサウルのもとにきて、彼に仕えた。サウルはひじょうにこれを愛して、その武器を執る者とした。またサウルは人をつかわしてエッサイに言った、「ダビデをわたしに仕えさせてください。彼はわたしの心にかないました」。神から出る悪霊がサウルに臨む時、ダビデは琴をとり、手でそれをひくと、サウルは気が静まり、良くなって、悪霊は彼を離れた。

Iサムエル16:13〜23

 

今日からの「御言葉を託された者」は、言わずと知れたダビデです。あまりにも話が広すぎてどこから手をつければ良いのかわからないような人物でもありますが、聖書に最初に登場する場面から見ていきましょう。その直後から、ダビデの人格の特徴が姿を現し始めます。

 

ダビデは、先駆者たちとはまた大きく変わった人材でした。裁き司たちの中でも、「ど」の上に「超」がつくような不良であったサムソンやエプタとも全く違います。また、最後の裁き司サムエルのように、幼少期から神に捧げられて祭司に育てられたわけでもなく、最初の裁き司ヨシュアのように偉大な預言者の鞄持ちを努めたわけでもありません。この二人と共通する点があるとするならば、それは各自、複数の役職、複数の肩書きを持っていたということです。ヨシュアは軍人でもあり裁き司でもありました。サムエルは祭司でもあり裁き司でもありました。ダビデは、軍人でもあり、国王でもあり、預言者でもありました。ちなみに、「預言者」「祭司」「国王」の3つのタイトルを持つのは、イェスだけです。サレム(後のエルサレム)の王、メルキゼデクは、祭司であり国王でした。

 

さて、話の流れに入っていきましょう。サムエルは、サウルを恐れながらも注ぎの油を携えてベツレヘムに向かいます。町の長老たちもビクビクしながら出迎えます。そのような緊迫した状況の中、ダビデは兄弟たちに見守られて国王としての注ぎを受けます。もちろん、そのことを周囲に他言する者はいません。何かの間違いでこのことが周囲に漏れてしまったら、エッサイの家が丸ごと、場合によっては一族丸ごとが、殲滅(せんめつ)されかねません。極秘中の極秘です。

 

さて、この時のダビデは、何歳くらいだったのでしょうか?訳によっては「若者」とか「少年」とか訳されていますが、ヘブライ語で使われている用語は「エ・オルム」で、思春期を抜けきっていない十代半ばの男子を指します。今で言えば中学生あたりの男子でしょうか?「青少年」とも訳せますが、現実的には「小僧」のような言い方をされていたのが最もありうる状況と思われます。

 

しかし、それだけ若いのに、色々と芸が立ちます。楽器も弾けるし、喧嘩すればめっぽう強いし、おまけに詩人です。その上に、容姿端麗、平滑流暢、忠勇無双と、天は二物を与え過ぎ!と思えてしまいます。しかし、これらの多くは、ダビデの先天的な才能から生まれたものではなく、後天的な態度・姿勢から生まれたものです。そしてそれは意外にも、ダビデが社会の底辺にいる、羊飼いであったことに関係しています。

 

羊飼いというのは、野獣から羊を守らなければならないという、命がけの仕事として知られていますが、来る日も来る日も、朝から晩まで野獣と戦っているわけではありません。それではあまりにも過酷すぎて、毎日が決勝戦のようなものです。ゲームの電源を入れるたびにボスキャラが登場するようなものです。現実的には野獣と戦うのは極めて稀、たまには遠くにいる野獣を早めに発見しては早めに追い払う程度で、それ意外の作業は恐ろしく単調なものです。定期的に羊を隣の草地に移動させる、その都度に水飲み場も確保してやる、寝るときは羊を囲いに入れて、自分が入り口に寝る、くらいです。実働時間は、一日のうち、せいぜい2〜3時間でしょう。それ以外は、ヒマです。ただただ、延々とヒマです。その時間を、単にぼお〜っとしている人もいるかもしれません。自分の置かれている状況を恨んで悶々とするのに使う人もいるかもしれません。現場に酒を持ち込んで、飲酒羊牧する人もいるかもしれません。しかし、ダビデは違いました。腕を磨いたのです。

 

十代半ばで大人も目を見張る演奏家であり、戦士であるダビデは、よほど幼い頃から文武両道、時間さえあれば何かの鍛錬に入れ込んでいたのでしょう。お兄さんが7人もいるのですから、普段からコテンパンにやられっぱなしだったのかもしれません。今に見ていろ、目に物を見せてやる、とフツフツとなっていたのかもしれません。しかし、大切なことはひとつ、ダビデはその膨大な暇な時間を確実に有益なスキルに変えていったのです。しかも、そのことを豪語せず、TPOをわきまえて「大人対応」ができる素敵な青年になっていたのです。これは、私たち誰もが見習うべきことです。確かにダビデは多才でしたが、「主が彼と共にいる」ということこそ、逆に言えば、彼が常に自我ではなく主に従って何事もなしていたことこそが、最も重要な点だったのです。

 

さて、ある日、エッサイ家に伝令がやってきます。サウル王からだ、という知らせに、一家全員が凍り付いたでしょう。どこからバレたんだ、自分たちは全員殺されてしまうのか?しかし、内容は、ダビデ君の琴の演奏が上手と聞いたので聴きたい、というものでした。お父さんのエッサイは、よかった、命拾いをした、というホッとした気持ちでパンと酒と子山羊の贈り物を用意してダビデを送り出した事でしょう、口が裂けても絶対に注ぎのことは言うんじゃないぞ、と注意して。

 

サウルは、ダビデのことを甚く(いたく)気に入ります。これはあくまでも私の考えですが、サウルは神から切り離され、サムエルから絶縁されても、主と共に歩んだ過去の時間の素晴らしさが忘れられずに、ダビデの琴の音(ね)にその香りを思い出していたのではないかと思います。そのため、事あるたびに、ベツレヘムからダビデを呼び出しては琴を弾かせていたのでしょう。片道10キロもない距離のため、青年ダビデにとってもいいバイトだったはずです。その上、ダビデが成長した暁には、俺サウルの剣持ちにしてやる、との約束までもらいました。しかし言うまでもなく、お兄さんたちがそれをよく思うはずがありません。その点はまた今後に。

 

今日の導入の話から、「主の心にかなう者」の素質が少しずつ見え始めたかと思います。それは、誰も真似できないくらいに素晴らしい才能と力量を持ったと言うよりは、誰にでもできるが誰もやらない基本を、誰も真似できないほど繰り返し練習して自らを磨き、しかも感謝と喜びのうちにそのようにして育っていった、誰よりも愚直な人物が見えてきます。

 

ダビデの詩。

わが岩、主をたたえよ。

私の手に戦いを

私の指に戦闘を教える方。

わが慈しみ、わが城、わが砦

わが救い、わが逃れの盾

私の民を私に従うようにさせる方。

主よ、人とは何者なのか

あなたがこれを知るとは。

人の子とは何者なのか

あなたがこれを思いやるとは。

人間は息に似ている。

その日々はさながら過ぎゆく影。

主よ、あなたの天を傾けて降り

山々に触れて煙を吐かせてください。

稲妻を光らせて敵を散らし

矢を放って彼らをかき乱してください。

高みから手を伸ばし

私を解き放って助け出してください

大水から、異国の子らの手から。

彼らの口は空しいことを語る。

その右手は欺きを行う右手。

神よ、私はあなたに新しい歌を歌おう

十弦の竪琴であなたをほめ歌おう。

詩篇144:1〜9

 

正しき人よ、主によって喜び歌え。

賛美はまっすぐな人にふさわしい。

琴をもって主に感謝せよ、

十弦の竪琴をもって主をほめ歌え。

新しい歌を主に歌え、

喜びの叫びと共に麗しく奏でよ。

詩篇33:1〜3

 

すべての民よ、これを聞け。

世に住むすべての者よ、耳を傾けよ。

人の子は皆、豊かな者も、また貧しい者も共に。

私の口は知恵を語り

私の心は英知を思う。

私は格言に耳を傾け

琴を奏でて、その謎を解き明かそう。

詩篇49:2〜5

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