八王子バプテスト教会通信

8月1日のメッセージ 2021年8月1日

み言葉を託された者:モーセ(1)

 

信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。

ヘブル11:23〜29

 

神の預言を託された人々についてしばらく考えて行きますが、一番最初はなんと言ってもモーセでしょう。モーセは律法を神から直接与えられましたが、完璧な人間ではありませんでした。先週も考えたように、主は不完全な人間を、ご自身の完全なご計画のために用いられます。そしてモーセも、いくつもの欠点や失敗がありました。欠点や失敗にもかかわらず主に用いられ、今では世界中でモーセの名を知らない人はごく少数でしょう。しかし、気をつけなければモーセ崇拝になってしまいますね。重要なのは、世界中の人がモーセを知っているということではなく、モーセが主に従った延長上で人類に聖書が与えられ、聖書は今では永遠のベストセラー書籍になり、多くの人を神に結び付けているということです。

 

ベストセラーという統計データと合わせて、もうひとつ面白い統計があります。それは世界各国の、聖書を保有している家庭の割合です。ダントツ一位がアメリカですが、二位はなんと日本なのです。しかし、日本の多くの家庭にある聖書は「教養のため」ということで購入されたもので、実際に読まれることは少ないのです。これでは、保有の意味がありません。

 

約100年前にアメリカで活躍した黒人で全盲のバプテスト路傍伝道者であり、現代の多くのアーティストに多大な影響を与えたゴスペルブルーズの作曲者兼シンガーであったブラインド・ウィリー・ジョンソンは、とある曲の歌詞にこのようなことを書いています。

 

I have a Bible in my home

If I don’t read, my soul be lost

Nobody’s fault but mine

 

私は家に聖書を持っている

しかしそれを読まなければ、私の魂は失われてしまうだろう

そうなったら、私以外の誰のせいでもない

https://ja.wikipedia.org/wiki/ブラインド・ウィリー・ジョンソン

 

ブラインド・ウィリー・ジョンソンの影響に敬意を表して、ハードロック・ヘヴィメタルの大御所のレッドゼッペリンもこの曲をカバーしています。

 

そうですね、聖書は持っていても一切「ご利益」はなく、「守り行う」ことに意味があります。さて、話をモーセに戻しましょう。

 

ヘブルの11章から読んだ中にモーセの信仰について述べていますが、その冒頭にモーセの両親の信仰について書かれています。そう、多くの有名なクリスチャンには、名も無き親の信仰の影響があるのです。ここで、出エジプト記の1:8〜2:10をお読み下さい。

 

両親が子供が「うるわしい」のを見て、命がけで隠した、とあります。この「うるわしい」というのは、ヘブル11章ではギリシャ語の「アステイオス」です。この言葉は、一般的には「うるわしい」と訳されますが、他の意味もあります。それは、「都市の住民として登録された者」、あるいはその性質を持つ者、という意味です。いわゆる「シティー・ボーイ」も指します。ヘブル11章の内容が、「素敵か素敵でないか」ではなく、「来らんとする都を待ち望む人々」に関するものであることを考えると、この言葉の方向性は明らかであると、私は考えています。それと同時に、モーセの両親の「神の国」に対する、信仰による貢献がどのようなものであったかもわかります。

 

さて、姉の協力もあり、モーセは実の親のもとで育てられることになりますが、もちろん、大人になるまで母親が育てるわけではありません。乳離をし、いくらか物事が判るようになると、そこを離れてエジプト王家の教育係のもとにおかれ、読み書きなどの勉強と合わせて行儀や作法、王家の心えを学びます。モーセは実にエジプトの王子、プリンスとして育てられたのです。

 

そして、モーセが自発的にとった行動の最初の記録が、次のようになっています。

 

モーセが成長して後、ある日のこと、同胞の所に出て行って、そのはげしい労役を見た。彼はひとりのエジプトびとが、同胞のひとりであるヘブルびとを打つのを見たので、左右を見まわし、人のいないのを見て、そのエジプトびとを打ち殺し、これを砂の中に隠した。次の日また出て行って、ふたりのヘブルびとが互に争っているのを見、悪い方の男に言った、「あなたはなぜ、あなたの友を打つのですか」。彼は言った、「だれがあなたを立てて、われわれのつかさ、また裁判人としたのですか。エジプトびとを殺したように、あなたはわたしを殺そうと思うのですか」。モーセは恐れた。そしてあの事がきっと知れたのだと思った。パロはこの事を聞いて、モーセを殺そうとした。しかしモーセはパロの前をのがれて、ミデヤンの地に行き、井戸のかたわらに座していた。

出エジプト2:11〜15

 

そしてこの井戸で出会った女の子の一人をそのまま妻として迎えることになるのですが、これまでは40年間、エジプトのプリンスとして育てられてきたモーセが、次の40年間をアラビヤ半島の羊飼いとして過ごすことになります。この出来事を通して、モーセの欠点がひとつ見えます。それは滅多にないことではありましたが、物事が一線を越えると、ブチ切れるという性格でした。そしてこのことが、生涯の最後に災いすることになります。

 

さらに40年を経て、80歳になった時のモーセに神の声がかかります。なぜもっと早い時点で声がかからなかったのか?神には神のご計画とタイムラインがあります。モーセを器として整える期間も必要だったのでしょう。モーセはこの上なく腰が低いことで知られていますが、若い頃のモーセでは謙虚さが足りず、それを学ぶ時間も必要だったのかもしれません。

 

しかし、モーセが実際に用いられることになると、モーセの短所や弱点が次々の浮かび上がってきます。次回のメッセージの内容になりますが、それぞれの点に対して神は別の道を用意したり、モーセに変革を強要したりします。実際、モーセが主の命令に聞き従わなければ、モーセを殺すことも辞さない決意でした。そして、モーセは時には失敗しながらも、主の器として用いられたのです。

 

私たちはあまりにも偉大な先輩を見ると、私ごときに見習えるところはないだろう、とさえ思ってしまいます。しかし、聖書に記録されていることは全て、私たちのガイダンスのための記述です。不完全な先輩たちが主に用いられたように、不完全な私たちも用いられるのです。モーセは初めから「うるわしい」子、神の国の進展に寄与すべき者として用意されましたが、私たちは自分がそうではないとなぜ思うのでしょうか?モーセがとある特別な働きのために用意されたのであれば、私がそれとは別の、モーセほど派手ではないかもしれないが他の誰にもできない主の働きのために用意されているのではないでしょうか?そう考えると、主の働きのために常に従えるように自らを整えておく必要があるのではないのでしょうか?最後にヘブル人への手紙の3章を読んで今日のメッセージを閉じましょう。

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