八王子バプテスト教会通信

5月23日のメッセージ 2021年5月23日

「安心の源(2)」

 

神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。

Iペテロ5:7

 

先週は、コロナ禍における自殺の多さについて考えました。「豊で当たり前」「将来が見通せて当たり前」という、とんでもなくあり得ない神話が定着したところに、コロナ禍の様々な不安が押し寄せ、世界的にも珍しい、自殺の社会現象がこの国に起きています。

 

不安は、基本的に誰も好きではありません。ほぼ誰もが安定を好みます。しかし、不安がそうも容易く、人を死に追いやるものなのでしょうか?少し考えましょう。典型的な不安とは、あるべきと思っているものが無いと思われる時にやってきます。

 

良い例が、いつも母親が一緒にいる、小さな子供です。母親に全てを依存しているので、母親の姿が見えなくなろうものなら、悲鳴を上げて泣きながら探しまわります。私たちにも、いくつか同じようなものがあるでしょう。

 

私たちが人間が、普段から最も必要としているのは、空気です。何かの理由で、呼吸ができなくなったり、自分のいる場所の空気の酸素濃度が低くなってしまった場合は、私たちはたちまちパニックに陥るでしょう。なぜならば、酸素がない状態が数分も続けば死ぬことはわかっていることですし、体も反射的に反応します。生命を守ろうとする働きです。

 

また、水がない、食料がないという状況が続いた場合、私たちはやはりパニックになります。空気の場合のように数秒内にパニックにはならないでしょうが、完全になくなってしまったら水の場合は数日間、食糧の場合は数週間で死に至ります。最初は乾きや空腹の不快感が強まりますが、そのうちに「この状況が続けば命が危ない」という恐怖感に置き換えられていきます。

 

このようなわけで、私たちは情報上「あるべき」と考えている、あるいは本能的に「あるべき」と知っているものが無くなると、大変な不安や恐怖に追い立てられます。それはある意味、仕方ありません。それは、私たちの肉体が主導権をもっている分野だからです。そのような自己防衛本能が働かなければ、私たちは簡単に死に絶えてしまうでしょう。

 

しかし、私たちは肉だけではなく、霊の存在でもあります。特に、クリスチャンは天の父との交わり、そして魂の永遠の命をもっています。けれども、私たちの肉の本能は、これを知りませんし、理解できません。だから、私たちが信仰を働かせようとしている最中にも反応してしまい、妨害をしてしまいます。私たちが普段から御言葉、正しい教理、そして霊的な交わりよりも、自分の気持ちや感情や考えに頼る癖がある場合は、悪魔はこれを簡単に利用し、私たちが霊的な生き方ではなく肉の生き方をするように誘導して行ってしまいます。

 

ところで、今まで話してきた事例は、生命を脅かすことばかりで、自殺につながるようなことではないですね。実際に自殺につながっている要素というのは、これらのものよりも対処のし使用があるのに、対処がなされず抱え込んでしまうものがほとんどなのです。例えば、成績だったり、収入だったり、人間関係だったり。

 

学校での成績が思わしくなく、勉強しても伸びない場合は、思い切って別の道に切り替えることも可能です。私の知人の中には、地方から東京に大学受験に出てきたものの、大学受験に失敗し、見通しが立たない中、思い切って専門学校に舵を切った人がいます。その人は、その後、立派なプロフェッショナルになり、かなりの稼ぎも出してきました。今では、50代半ばですが、稼ぐだけ稼いだと早期退職し、早々と退職後の趣味に打ち込んでいます。

 

また、大量の借金を背負ってしまって、あとは首を吊るしかないだろう、と考える人もいます。しかし、冷静に考えることができれば、個人破産という道も思いつくでしょう。決して生易しいものではなく、安易に選択すべきものでもありませんが、これを選択した結果生きながらえ、今では日本で知らない人はまずいない、と言われるまでの芸能人になった人もいます。

 

このように、状況を悲観して自らの命を断つ必要はないのです。仮に仕事も収入も家も失うことになっても、生活保護を受けながら簡易宿泊所で主の証し人として用いていただくことも考えられます。

 

しかし、冷静に考えることができれば、です。

自殺問題の専門家によると、自殺された方は、平均、4つの大きな悩みを抱えていたそうです。金銭的な問題だったり、職場の人間関係だったり。そして、それぞれを個別に整理して考える余裕もなく、精神的に押し潰されるというのです。つまり、自らの命を断つ人は、考えることが多すぎで頭がいっぱいになっているのではなく、感じることが多すぎて心がいっぱいになってしまっているのです。頭に手伝ってもらえば心がその分、楽になるのに、残念ながら自分では中々そこに行き着かず、そしてそれを導いてくれる人にも相談しないのです。

 

そして最後は、「今の苦しみから逃れたい」という一心で死を選択してしまうのです。積極的に死を選ぶ人は基本的におらず、ただ単に今の苦しみから逃れる唯一思いつく方法として死を選んでしまうのです。

 

そこで、今日の聖句です。

神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。

Iペテロ5:7

 

「思いわずらい」とは、よく言ったものです。「わずらい」とは病気のことですが、自分の中で悩むこと自体、すでに心の病気なのです。そのようなことを、いっさい神にゆだねるがよい、と書いてあります。しかし、神は私の悩みなど聞きたいのでしょうか?私が起こしてきた問題をゆだねて迷惑ではないのでしょうか?やはり自分で一通り努力してからでないとゆだねるのも失礼なのではないでしょうか?

 

しかし、考えてみてください。例えば十代の子供がいる親の最大の悩みは、学費でも子供の素行でもなく、子供が心底思っていることを打ち明けてくれないことではないのでしょうか?これは古今東西、変わらないことです。そして、私たちの天の父も同様に決まっています。なぜ違うと思うのでしょうか?

 

「あのさ、ちょっと悩んでることがって、聞いて欲しいんだけど」

こう言われて、イヤと思う親はいないでしょう。仮に忙しくても、耳を傾けるでしょう。

しかし、ここからが今日のポイントです。

「それで、どういうことを悩んでるんだ?」

「いや、なんとなく」

「ふ〜ん」

 

これでは何の解決にも繋がりませんね。私たちが「自分の思いわずらいをいっさい神にゆだねる」というのは、こんがらがった心の内を放り出すことではなく、ひとつひとつの悩みを、つぶさに打ち明けることです。祈りの中において主に打ち明けた問題を、主が無視することはありません。場合によってはよりよい道を示してくださったり、助けを送ったりしてくださることもあれば、場合によっては自分の誤った選択のためにその結果を負うべきことを示してくださったりすることもあります。しかし、いずれの場合も、子を最大限に愛している厳格な父として対応してくださいます。

 

しかし、祈りの中で、自分の問題や悩みを全て覚えて話すことができるでしょうか?確かに、色々祈ろうと思って言い忘れてしまったことが全て思い出せず、忘れてしまったという経験は誰でもしたことがあるでしょう。ならば、事前に神に書き出して整理しておいた方が良いのではないでしょうか?

 

しかし、祈りは精神世界のもの、情報整理は相応しくないのではないか、という声も聞かれます。これこそ、信仰と宗教を勘違いした、履き違いです。人にものを相談するのに、情報整理もせずに話すのも失礼な話です。私たちの天の父も同様に決まっています。なぜ違うと思うのでしょうか?もう心が目一杯でそのようなことをする余裕もないのであれば別ですが。

 

そして、ひとつひとつの問題を打ち明けていけば、ひとつひとつに対して、自分がどのように考えて進めば良いのか、道が示されます。多くに場合、それは自分が想定していなかった道かもしれません。そこで気づきます。自分がこれだけ苦しんでいたのは、主から与えられた道ではなく、肉の思いによって選んだ道を進んでいたからだ、ということに。

 

そして、もうひとつ。究極的に追い込まれてから初めて相談するのではなく、普段から祈りにおいて相談しましょう。あまりひどいことにならないうちに、自分の道に代わる主の道を示していただきましょう。これを繰り返しているうちに、今度はいちいち起こる肉のパニックもならしていくことができます。「主が恵み深い方であることをすでに味わい知った」(Iペテロ2:3)からです。

 

私たちは、この地上で社会から隔離されたところで信仰を守ことを命じられているのではなく、社会の中において証しとなることが求められています。そのためには、イェスが譬え話で教えられたように、お金の使い方においても、人間関係においても賢くなければなりません。しかし、それらは究極的に大事なものではなく、主の働きをする上で用いられるものに過ぎません。究極的に私たちにとって大切なのは、「主はわたしの受くべき分」ということであって、これを理解していれば、あとは何とかなるのです。

 

主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。彼は心から人の子を苦しめ悩ますことをされないからである。

哀歌3:22〜33

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