八王子バプテスト教会通信

2月14日のメッセージ 2021年2月14日

引き続き、反面教師となった先輩方について士師記から学んでいます。毎回繰り返すようですが、人のこのような失敗を学んでいるのは、私たちが同じ過ちを犯さないためです。時代背景や状況は大きく異なりますが、私たちがこのようなことを学び、自ら肝に銘じておかないと、違う時代に、違う状況で、全く同様の失敗をしてしまうのです。今日は、エフタについてです。士師記の11章をお読みください。

 

話の最初に、エフタの生い立ちについて言及されています。彼は長男でしたが、父の正妻が産んだ子ではなく、父が娼婦に生ませた子供でした。そのため、彼に父の家の財産を相続させることがないようにと、成人すると兄弟たちに家を追い出されてしまいました。彼は、おそらく生い立ちのことで随分いじめられて育ってきたのでしょう。喧嘩っ早いのか、喧嘩に強いのか、追い出された先では、彼は山賊のカシラになるほどの腕前を持っていました。

 

同じように、父が娼婦に生ませた子ということで随分辛い想いをたくさんした人が他にもいます。かのコンスタンチンです。彼は軍での実績を買われて元老院から時期皇帝に選出されるも、同じ軍部にいた大将たちは「俺は娼婦の息子には頭を下げないぞ」ということで、受け入れませんでした。最終的に、コンスタンチンは武力で帝国を統一することを余儀なくされました。

 

エフタの話に戻りましょう。イスラエルは、アモン人に宣戦布告されます。体系立った軍隊がなく、困った長老たちは、戦うことに長けているエフタにラブコールを送ります。要するに、アモン人に勝った暁には、ギルアデのリーダーにしてあげましょう、というのです。何という大逆転人生のチャンスでしょう!神はまさに、この時のためにエフタを用意されていたのです。しかし、神の言葉に親しまず周囲の人々に親しんでいたエフタは、ここで致命的なミスを犯してしまいます。勝利して帰ったならば、自分の家から出てきた最初のものを、燔祭として捧げると神に誓いました。

 

こんなことは神の望むことではありません。忠実なしもべを祝福することが神の望みです。神の器となり神の働きをする上では、何も自己犠牲を払って神の祝福の手をこじ開ける必要なないのです。しかし、彼は神の教えではなく、偶像礼拝をする周囲の人々の常識に慣れ親しんでしまっており、彼ら同様な誓いを立ててしまったのです。そして、主に立てた誓いは、必ず守らなければなりません。

 

神はご計画通りに、エフタに大勝利を与えます。エフタの誓いとは関係ありません。しかし、エフタはその愚かな誓いの代償を払わなければなりません。家に帰ってきたとき、家から真っ先に飛び出してきたのが、愛する一人娘でした。

「パパ、おめでとう!すごいね!」

エフタは一気に有頂天からどん底に突き落とされます。あの軽はずみな誓いをした時、こうなる可能性も考えられたはずです。自分の家族、特に妻や娘に危害が加わるようなことをするのは、男性としては最低最悪です。そして何よりも残念なのが、それが全く不必要だったということです。しかし、今となってはどうすることもできません。

 

さて、2ヶ月の嘆きから戻ってきた娘を実際に燔祭として捧げたかどうかは、歴史には記録されていません。しかし、実際には燔祭として捧げたわけではないと見る根拠はいくつかあります。

まずひとつに、主は人間を生贄にすることを許されません。アブラハムにはイサクを捧げるように命じましたが、寸前で止めました。また、イスラエルがアモン人のモレク神に子供を生贄として捧げるようになると、神の激しい怒りを受けました。しかし、エフタはこの後、イスラエルの裁き司(士師)になります。人間を燔祭にする人を神が裁き司に抜擢する事は考えにくいです。

もうひとつに、イスラエルの律法における刑事罰の多くは、「等価の法則」に基づいて行われていたことを考える必要があります。モーセの律法に「目には目を、歯には歯を」とあっても、例えば人を失明させてしまった場合に、文字通りに自分も失明させられる(「鏡の刑罰」とも言い、厳格なイスラム教の一部にこのような教えがあります)のかというと、そうではなく、人を失明させてしまったことに対する等価的な保証を、場合によっては一生、し続けなければなりません。

そう考えると、エフタの娘は燔祭にされたのではなく、一生、神の聖所に使える女性として捧げられたというのが現実的な結論です。日本で女性が尼となって寺に入るのと同様です。しかし、殺されないとは言っても、エフタはおそらく一生、二度と娘に会えません。他に子供はいませんから、自分の孫を抱き上げる喜びも知る事はありません。あの全く不必要な、軽率な誓いのために!

 

その後エフタは6年間、イスラエルの裁き司を務め、死んで葬られました。何とも後味の悪い話です。しかし、私たちはエフタから何が学べるでしょうか?私たちはどのようなことを気をつければ良いのでしょうか?

 

エフタの生い立ちは、確かに悲しいものでした。私たちの生い立ちは様々ですし、変えられません。各々自分の生い立ちの先の人生を生きなければなりません。

また、エフタが山賊になったのはよくありませんでしたが、神の器としてイスラエルを救った以上、その罪は神からもイスラエル国民からも責められていません。

最もまずかったのが、真の神の祝福を知らない、周囲の異邦人の価値観で考え動く人たちで自分の周りを固めてしまったことです。そうすると、普段から神に従わない人々から影響を受け続けるため、いざとなったときには、それに基づいた言動が生まれるのです。

 

これは、私たちも十二分に気をつけなければならないことです。私たちは普段から、神の祝福と愛を十分に経験した人たちから影響を受けているでしょうか、あるいは世間一般の人から影響を受けているのでしょうか?私たちが普段からテレビやネットから受けている影響は、どのようなものでしょうか?世間から受ける影響が極悪非道なものではないでしょうが、私たちがこの世と異質な「地の塩」として働くのには訳に立たないばかりか、その塩の塩味を削ぐものになりかねません。

 

影響を受ける側ではなく、影響を与える側でなければなりません。そのためにはどうすれば良いのか、注意深く考えましょう。そうしなければ、エフタとは全く異なった状況で、エフタと全く同じ過ちを犯してしまうでしょう。

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