八王子バプテスト教会通信

8月29日のメッセージ 2021年8月29日

み言葉を託された者:モーセ(3)

 

さてモーセが途中で宿っている時、主は彼に会って彼を殺そうとされた。その時チッポラは火打ち石の小刀を取って、その男の子の前の皮を切り、それをモーセの足につけて言った、「あなたはまことに、わたしにとって血の花婿です」。そこで、主はモーセをゆるされた。この時「血の花婿です」とチッポラが言ったのは割礼のゆえである。

出エジプト4:24〜26

 

前回、モーセは主の逆鱗に触れますが、今回もいきなり主を怒らせています。しかも、今回は出だしからモーセを殺そうとしています。民を救うために選び出しておいて、突然なんでしょう?今回の箇所は、旧約聖書の中でも最も謎めいた箇所のひとつとされています。何よりも、あまりにも情報が少ないのです。

 

ただ、はっきりとわかることがいくつかあります。それは、

  1. モーセは息子に割礼を施していなかった。
  2. 妻チッポラはとっさに機転を利かせてその子に割礼を施し、主の怒りを鎮めた。
  3. チッポラは本来、我が子に割礼をすることを望んでおらず、この件でモーセを「血の婿」と呼んだ。

 

細かいところで不明な点はいくつかありますが、この情報を元にして話の真意を解きほどいていこうと思います。前後の流れからすると、モーセはアーロンと会うために旅をしていますが、妻子を連れての家族旅行です。ちなみに、割礼の対象になった息子は何歳くらいでしょうか?従来の西洋絵画では小さな子供か、せいぜい少年として描かれています。しかし、考えてみてください。チッポラを嫁にもらったのはモーセが40歳の時、40年前です。その時チッポラが14〜15歳と考えると、今では50代半ばの中年女性になっています。そして、結婚から数年以内に子供が生まれているであろうことを考えると、この息子は30代半ば、つまり成人した男性、ということになります。口語訳では「男の子」と書いてありますが、これは完全な意訳で、原文には「息子」としか書いてありません。

 

モーセにはゲルショムとエリエゼルという二人の息子がいました。このうちどの息子が今日の聖書に登場する息子かわかりません。一般には兄のゲルショムと思われがちですが、これはまだ小さい子供の時の出来事という思い込みがあるためで、弟はまだ生まれていないのだろうとイメージされてしまいます。逆に、モーセが兄に割礼を施した様子を見たチッポラが、他の子には同じような思いを絶対させたくない、と嫌がったケースも想像できます。

 

しかし、これは今日の話には特段関係のない点です。ポイントは、アブラハムの子孫であるモーセが、割礼を我が子に施さなかったことです。モーセに律法が渡されていなかったとは言え、これはアブラハムの時代からの鉄則でした。モーセは単に、主の命に従っていなかったのです。

 

わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう。わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちカナンの全地を永久の所有として与える。そしてわたしは彼らの神となるであろう」。神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に代々わたしの契約を守らなければならない。あなたがたのうち男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。あなたがたのうちの男子はみな代々、家に生れた者も、また異邦人から銀で買い取った、あなたの子孫でない者も、生れて八日目に割礼を受けなければならない。あなたの家に生れた者も、あなたが銀で買い取った者も必ず割礼を受けなければならない。こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって永遠の契約となるであろう。割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」。

創世記17:7〜14

 

なぜ、ここまで明確な指示があるのにもかかわらず、モーセはそれをしなかったのでしょうか?理由は簡単です。モーセは優しすぎたのです。だから、チッポラが嫌だと言えば、そこから先は強いことが言えないのです。モーセについて、このように書いてあります。

 

モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。

民数記12:3

 

優しいし、腰が低いし、とにかく揉め事や対立を嫌う、徹底した事なかれ主義でした。しかし、これは一国のリーダーとしては決して良い資質とは言えませんし、一家のリーダーについても同様のことが言えます。モーセは義父の家でお世話になっているということもあり、尻に敷かれることに甘んじていた様子も伺えます。しかし、優しいだけでは、本当に重大なことが起きた時、または重要な決断をしなければならない時、守べき人々を守ことができなくなってしまいます。守るべき家に災を呼び込んでしまい、優しくしてきた家族に対して残酷な結末になってしまうこともあります。

 

ソロモンも同じ過ちを犯しました。モーセの律法で禁止されていた、周辺国との和睦を目的とした政略結婚に傾倒します。正室と側室を合わせて、ついに一千人に及んでしまいます。しかも、ソロモンは彼女たちを心底愛します。猫っ可愛がりします。だから、彼女たちが自分の国の神々の像を持ち込みたいと言った時、「だめだ」と言えなかったのです。結果、ソロモンの時代にイスラエルが偶像だらけになってしまいます。後の世に、良き王ヨシヤが行った偶像追放運動について、このように書かれています。

 

「また王はイスラエルの王ソロモンが昔シドンびとの憎むべき者アシタロテと、モアブびとの憎むべき者ケモシと、アンモンの人々の憎むべき者ミルコムのためにエルサレムの東、滅亡の山の南に築いた高き所(偶像礼拝の場)を汚した。」

II列王紀23:13

 

偶像とまではいかなくても、使徒パウロはクリスチャンについても、同じ懸念を示しています。「未婚の婦人とおとめとは、主のことに心をくばって、身も魂もきよくなろうとするが、結婚した婦人はこの世のことに心をくばって、どうかして夫を喜ばせようとする。(Iコリント7:34)」また、パウロは個人的には、宣教に出るときに妻を連れて歩いていたペテロをよく思っていなかったようです。

 

しかし、パウロ自身も、未婚の状態でクリスチャンとしての責任を果たすことができるのは特殊な賜物であるとも、Iコリント7章で述べています。自分が結婚できていないから自分はその賜物を持っている、と軽々に口にするべきではありません。賜物を頂いているのは、多くの祈りと、その賜物が多く用いられ得ることによって知ることができるのです。状況と賜物とは別物です。そしてパウロはこうも述べています。

 

「妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。」

エペソ5:22〜28

 

その通りです、私たち人間はこのような形で神に栄光を帰し、神を畏れ敬う子孫を残すように創られたのです。

 

「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。」

創世記2:24

 

これはイェスもパウロも引用した言葉です。それぞれ違う立場の人が相手を思いやり、その中からキリストのみ姿を世の人々の前に映し出すのです。しかし、その思いやり方が、キリストあって正しいことよりも大事になってしまった時、全てがおかしくなってしまうのです。家の中においては、夫には夫の責任と役割が、妻には妻のの責任と役割が、そして子には子のの責任と役割があります。全員がお互いの顔色をうかがい合ってお互いに嫌われないように気を配るのではなく、お互いがキリストの方を向いてキリストに従い、その中でお互いを気遣い合うならば、その家は必ずキリストの証しとなるでしょう。

 

モーセの家庭事情から始まり、随分と家族について考えましたが、この原理は決して夫婦や家族に限られたものではないと思います。友人関係や近所、職場、学校などにおいても同じことが言えると思います。クリスチャンとして「嫌なヤツ」になってはいけませんが、嫌われないためにキリストの福音を封じ込めてしまったら、それこそ本末転倒です。

 

私たちは、優しく、人当たりが良くて、好かれ信頼される人になっていませんか?それ自体は良いこととしても、そうするためにキリストの言葉を外に対して封じていることはありませんか?だれにでも起こりうることです。自分の立ち位置を再確認しましょう。

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