八王子バプテスト教会通信

11月14日のメッセージ 2021年11月14日

み言葉を託された者:デボラ

 

エホデが死んだ後、イスラエルの人々がまた主の前に悪をおこなったので、主は、ハゾルで世を治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売りわたされた。ヤビンの軍勢の長はハロセテ・ゴイムに住んでいたシセラであった。彼は鉄の戦車九百両をもち、二十年の間イスラエルの人々を激しくしえたげたので、イスラエルの人々は主に向かって呼ばわった。そのころラピドテの妻、女預言者デボラがイスラエルをさばいていた。彼女はエフライムの山地のラマとベテルの間にあるデボラのしゅろの木の下に座し、イスラエルの人々は彼女のもとに上ってきて、さばきをうけた。デボラは人をつかわして、ナフタリのケデシからアビノアムの子バラクを招いて言った、「イスラエルの神、主はあなたに、こう命じられるではありませんか、『ナフタリの部族とゼブルンの部族から一万人を率い、行って、タボル山に陣をしけ。わたしはヤビンの軍勢の長シセラとその戦車と軍隊とをキション川に引き寄せて、あなたに出あわせ、彼をあなたの手にわたすであろう』」。バラクは彼女に言った、「あなたがもし一緒に行ってくだされば、わたしは行きます。しかし、一緒に行ってくださらないならば、行きません」。デボラは言った、「必ずあなたと一緒に行きます。しかしあなたは今行く道では誉を得ないでしょう。主はシセラを女の手にわたされるからです」。デボラは立ってバラクと一緒にケデシに行った。バラクはゼブルンとナフタリをケデシに呼び集め、一万人を従えて上った。デボラも彼と共に上った。時にケニびとヘベルはモーセのしゅうとホバブの子孫であるケニびとから分れて、ケデシに近いザアナイムのかしの木までも遠く行って天幕を張っていた。アビノアムの子バラクがタボル山に上ったと、人々がシセラに告げたので、シセラは自分の戦車の全部すなわち鉄の戦車九百両と、自分と共におるすべての民をハロセテ・ゴイムからキション川に呼び集めた。デボラはバラクに言った、「さあ、立ちあがりなさい。きょうは主がシセラをあなたの手にわたされる日です。主はあなたに先立って出られるではありませんか」。そこでバラクは一万人を従えてタボル山から下った。主はつるぎをもってシセラとすべての戦車および軍勢をことごとくバラクの前に撃ち敗られたので、シセラは戦車から飛びおり、徒歩で逃げ去った。バラクは戦車と軍勢とを追撃してハロセテ・ゴイムまで行った。シセラの軍勢はことごとくつるぎにたおれて、残ったものはひとりもなかった。しかしシセラは徒歩で逃げ去って、ケニびとヘベルの妻ヤエルの天幕に行った。ハゾルの王ヤビンとケニびとヘベルの家とは互にむつまじかったからである。ヤエルは出てきてシセラを迎え、彼に言った、「おはいりください。主よ、どうぞうちへおはいりください。恐れるにはおよびません」。シセラが天幕にはいったので、ヤエルは毛布をもって彼をおおった。シセラはヤエルに言った、「どうぞ、わたしに水を少し飲ませてください。のどがかわきましたから」。ヤエルは乳の皮袋を開いて彼に飲ませ、また彼をおおった。シセラはまたヤエルに言った、「天幕の入口に立っていてください。もし人がきて、あなたに『だれか、ここにおりますか』と問うならば『おりません』と答えてください」。しかし彼が疲れて熟睡したとき、ヘベルの妻ヤエルは天幕のくぎを取り、手に槌を携えて彼に忍び寄り、こめかみにくぎを打ち込んで地に刺し通したので、彼は息絶えて死んだ。バラクがシセラを追ってきたとき、ヤエルは彼を出迎えて言った、「おいでなさい。あなたが求めている人をお見せしましょう」。彼がヤエルの天幕にはいって見ると、シセラはこめかみにくぎを打たれて倒れて死んでいた。こうしてその日、神はカナンの王ヤビンをイスラエルの人々の前に撃ち敗られた。そしてイスラエルの人々の手はますますカナンびとの王ヤビンの上に重くなって、ついにカナンの王ヤビンを滅ぼすに至った。

士師記4章

 

士師記の時代に繰り返された悲劇について、すでに学びました。イスラエルの民は約束された地に入り、ヨシュアのリーダーシップのもと、領地を獲得しました。ヨシュア亡き後は、主を知らない世代が現れたと記録されていますが、これはヨシュアの下におけるイスラエルの人々が、モーセの律法に命じられているように子供たちに律法を教えることをしなかった証拠でもあります。そのため、彼らは繰り返し偶像礼拝に陥るようになりました。その度に、主は彼らを敵の手に渡します。今週の話も、ここから始まります。

 

この時代、イスラエルを裁いていたのは女預言者のデボラでした。聖書の中で、女性の預言者は非常に少なく、また女性の裁き司は他に例がありません。非常に特筆すべき点と思われるかもしれませんが、実はそこがポイントではない、というのが今日のポイントです。

 

デボラは「ラピドテの妻」として紹介されていますが、これが原文の正確な翻訳であるのか、疑問が残ります。というのは、「ラピドテ」という人物は旧約聖書の史上に見当たりません。また、「ラピド」というのは、「燃えるたいまつ(炉)」という意味です(例:創世記15:17)。そう見ると、デボラが「炎のような女性」として紹介されている可能性もあります。どちらが正しいのかはわかりませんが、少なくともデボラが炎のように激烈な女性であったことは、おそらく間違い無いでしょう。

 

デボラの話は、そのわかりやすさから、しばしば子供向けの日曜学校の話の材料になります。しかし残念なことに、その話の伝え方が、「ほら、女性でもやればできるんだよ」になってしまいがちです。これは、「女性でも」と言った時点で既に女性蔑視ですし、何よりもこの物語の根幹を見落としていることになってしまっています。その点は後ほど。

 

さて、デボラは主の言葉を示され、これを預かります。イスラエルがカナンの王ヤビンのもとで主の懲らしめを受ける時期が終わり、主がヤビンを滅ぼす時が来たのです。将軍としてナフタリのバラクに白羽の矢が立ちます。デボラはバラクに使者を送り、指令を伝えます。バラクの返答は、意外なものでした。

「一緒に来てくれるのであれば、その通りにします。でも一人ではイヤです。」

主の命令に従うのに条件をつけた返答に対して、デボラはこう告げます。

「もちろん、一緒に行きます。ただ、そんな態度では、戦勝の名声はあなたではなく、女性が受けることになりますよ。」

 

ここでも、子供向けの話の中ではバラクを「女が一緒に来ないと怖くて出ていけない情けない男」と描かれがちです。これも、なんとも女性蔑視的な視点です。

 

バラクはデボラのこの言葉の意味を、こう聞いていたのでしょう。

「この戦いの名声は、あなたのものではなくて、私のものですよ。」

しかし、それも違います。デボラの言葉はさらに違う出来事を預言するものでした。

 

ケニびとヘベルの妻ヤエルは、女のうちの最も恵まれた者、天幕に住む女のうち最も恵まれた者である。シセラが水を求めると、ヤエルは乳を与えた。すなわち貴重な鉢に凝乳を盛ってささげた。ヤエルはくぎに手をかけ、右手に重い槌をとって、シセラを打ち、その頭を砕き、粉々にして、そのこめかみを打ち貫いた。シセラはヤエルの足もとにかがんで倒れ伏し、その足もとにかがんで倒れ、そのかがんだ所に倒れて死んだ。

士師記5:24〜27

 

名声を受けたのは、「天幕に住む女」、つまり主婦であるヤエルでした。士師記5章は、「デボラの歌」と呼ばれる箇所で、その中でヤエルのことを「女のうちの最も恵まれた者、天幕に住む女のうち最も恵まれた者」と称えています。デボラの予言通りになりました。

 

さて、なぜバラクがデボラの同行を求めたのでしょうか?「怖かったから」というのはあまりもこの流れに合っていないような気がします。では、他の理由があるとすれば、どのようなものでしょうか?

 

イスラエルの人々はデボラを畏れ慕い、従っています。デボラは神の前に清く正しく歩んでいます。バラクは、それと比べたら自分はどうか?と自らを吟味し、不安になってしまったのではないかと、私は考えます。デボラが戦いに赴けば、神は間違いなくその戦いを祝福されるだろうが、それと引き換え、私の場合はどうだろう?自分の罪や至らなさ故に、主に従うことに不安を覚えてしまったのかもしれません。そうなると、デボラに「戦勝の名声はあなたではなく、女性が受けることになりますよ」と言われても、何も言い返せなかったのでしょう。

 

これは男女の役割の話ではなく、普段から主に従っている人が、普段からでも特殊な時にでも、主のお役に立てる、という話であることが見えてきますね。信仰の模範とされる旧約の女性たち、例えばエステル、ルツ、ラハブなどは、とてつもなく大きな働きをすべく出て行ったのではなく、自分のところに舞い込んだ事態に対処したまででした。相模原市の橋本駅にある「男女共同参画推進センター」に、こんな川柳が貼り出してあります。

 

なんだって 気付いた人が やればいい

 

そうですね、家事でもなんでも、男女や立場に関係なく、その時に手が空いている人がやってしまえば、簡単に済みます。そして、主が人材を選んで用いられるのも、これにかなり似ているのではないかと思います。しかし、家事とは違って、霊性と信仰が求められます。自分の心という「陣の内」に罪がある状態では、そのような場に巡り合っても、バラクのように不安になってしまいます。そのためにはどうすれば良いのか?簡単です。デボラのように、常に霊性と信仰を持った状態におけば良いのです。そうすると、この長いシリーズの起点となった御言葉が思い出されます。

 

聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

IIテモテ3:16〜17

 

私は以前、ある消防士の話を聞いたことがあります。消防士というのは、出勤してから出動の待機をしている間の時間を利用して、頻繁にトレーニングしています。機材の手入れや使い方の練習だけではなく、腕立て伏せや腹筋、ロープ登りなど体力作りにも余念がありません。しかし、この消防士の方は、勤務中のこの時間だけではなく、公休日も週末も、筋トレに明け暮れています。その理由は?過去のある火災現場で、救出できたかもしれない人を、自分の体力が足らず死なせてしまったという苦い経験があったのです。自分がもっと準備できていれば、その方は今で生きているかもしれない、という強烈な自責の念に駆られて、自分の「消防士としてのあるべき姿」を追求しているのです。とても感動的な話でした。

 

救出してもいずれは失われてしまう、時間の限られた生命のためにこれだけ準備をしているのであれば、永遠の魂の行方に携わる働きをしている私たちは、尚更準備をして、用意されたものとなるのは当然のことでは無いでしょうか?それはたくさん勉強と積んだり、たくさん善行や自己犠牲を積んだりということではなく、主の働きに巡り合ったときに、「はい、私が行きます!」と言える状態の心と魂を準備することです。

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