み言葉を託された者:ミカ(3)
わたしは言った、ヤコブのかしらたちよ、イスラエルの家のつかさたちよ、聞け、公義はあなたがたの知っておるべきことではないか。あなたがたは善を憎み、悪を愛し、わが民の身から皮をはぎ、その骨から肉をそぎ、またわが民の肉を食らい、その皮をはぎ、その骨を砕き、これを切りきざんで、なべに入れる食物のようにし、大なべに入れる肉のようにする。こうして彼らが主に呼ばわっても、主はお答えにならない。かえってその時には、み顔を彼らに隠される。彼らのおこないが悪いからである。わが民を惑わす預言者について主はこう言われる、彼らは食べ物のある時には、「平安」を叫ぶけれども、その口に何も与えない者にむかっては、宣戦を布告する。それゆえ、あなたがたには夜があっても幻がなく、暗やみがあっても占いがない。太陽はその預言者たちに没し、昼も彼らの上に暗くなる。先見者は恥をかき、占い師は顔をあからめ、彼らは皆そのくちびるをおおう。神の答がないからである。しかしわたしは主のみたまによって力に満ち、公義と勇気とに満たされ、ヤコブにそのとがを示し、イスラエルにその罪を示すことができる。ヤコブの家のかしらたち、イスラエルの家のつかさたちよ、すなわち公義を憎み、すべての正しい事を曲げる者よ、これを聞け。あなたがたは血をもってシオンを建て、不義をもってエルサレムを建てた。そのかしらたちは、まいないをとってさばき、その祭司たちは価をとって教え、その預言者たちは金をとって占う。しかもなお彼らは主に寄り頼んで、「主はわれわれの中におられるではないか、だから災はわれわれに臨むことがない」と言う。それゆえ、シオンはあなたがたのゆえに田畑となって耕され、エルサレムは石塚となり、宮の山は木のおい茂る高い所となる。
ミカ3章
ミカは主にエルサレムの住民と指導者たちに対して、その退廃した道徳観念を批判する予言をしています。しかし、彼らはエルサレムの中でそれが標準で当たり前のことである雰囲気に慣れてしまい、いわば「茹でガエル」のような状況になっていました。その公正の欠如が彼らにとっては空気のようなものになってしまっていました。
それとは逆にエルサレムに対する予言をしていたミカは、エルサレムに住んでいませんでした。彼は、国際的な貿易行路の近くに住み、アジア中の情報を耳にすることができる立場にいました。そこで彼は、主からの啓示と合わせて、世界中の情報の中にエルサレムの現状を見て、ギリギリしていたのだと思います。自分の現況が客観的に見えないというのは、本当に恐ろしいことなのです。
言うまでもなく、これは和たちたちに対する警戒でもあるのですが、このように自分の罪に対して麻痺して無感覚になった場合、私たちは自分が良いとは思わない罪に対してはさらに厳しく裁く、ということをしてしまいます。これがイェスの時代にも横行していました。
そこで彼らは、盲人であった人をもう一度呼んで言った、「神に栄光を帰するがよい。あの人が罪人であることは、わたしたちにはわかっている」。すると彼は言った、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」。そこで彼らは言った、「その人はおまえに何をしたのか。どんなにしておまえの目をあけたのか」。彼は答えた、「そのことはもう話してあげたのに、聞いてくれませんでした。なぜまた聞こうとするのですか。あなたがたも、あの人の弟子になりたいのですか」。そこで彼らは彼をののしって言った、「おまえはあれの弟子だが、わたしたちはモーセの弟子だ。モーセに神が語られたということは知っている。だが、あの人がどこからきた者か、わたしたちは知らぬ」。そこで彼が答えて言った、「わたしの目をあけて下さったのに、そのかたがどこからきたか、ご存じないとは、不思議千万です。わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます。生れつき盲人であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」。これを聞いて彼らは言った、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」。そして彼を外へ追い出した。イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
ヨハネ9:24〜41
ここで思い出されるのが、数年前に現代のイスラエルで起きた一連のテロ事件です。安息日にバスが運行されていることに反発した極右ユダヤ教徒の一部が、バスの待合所をいくつか焼き討ちにする事件が起きたのです。安息日を守るということが律法全体の中でどのような意味を持っているのか、焼き討ちという犯罪が律法の中でどのような性質であるのか、全く考えていないのは、イェスが安息日に人を癒したことに反発した指導者たちと全く同じ感覚です。このような点を指摘するために、イェスは「放蕩息子」や「良きサマリヤ人」の喩えを語られました。その言葉は指導者たちをさらに逆上させましたが、多くの人々の心に留まり、エルサレムの陥落後にこのような人々によって、行動を伴った形で全世界に広められました。
ここにも、私たちが注意しなければならない点があります。私たちが「仕方ない」とか「別にいいのではないか」と考えている罪と、私たちが大嫌いな罪とがあるわけですが、私たちはこれらを同様に罪として扱うことがなかなかできず、自分が寛容に捉えている罪を犯す人には寛容になり、自分が嫌いな罪を犯す人には厳しく当たる、という状況になってしまいます。これでは、イェスの時代の指導者たちと全く同じです。
アメリカの保守系の教会では時々このような標語が見られます。
Don’t judge others because they sin different from you.
「他人が、あなたと異なる罪の犯し方をするからといって、裁いてはいけません。」
みもふたもない言われようですが、まさにその通りなのです。そして、私たちが自分が嫌う罪を犯している人に対して使う物差しで、主は私たちを図られるのです。私たちが大嫌いに思って見下している他人の罪に対する判断基準を、主は私たちが「仕方ない」とか「別にいいのではないか」と考えている罪を裁く判断基準として適用されるというのです。
本来、このような時には、民を導くべき国のリーダー達などの力が必要です。しかし、ミカの時代のエルサレムでは、政治的なリーダー(ヘゼキヤを除く)も、経済的なリーダーも、宗教的なリーダーも、そして多くの預言者たちまでもが同じ渦中に陥ってしまっていたのです。これでは、誰も国を立ち直らせることができません。最終的に、主はユダという樹木を切り倒し、そこから生え出た「ひこばえ」からダビデの末裔を得ることとしたのです。
今の世の中も、教会のリーダーたちが正しく群れを導くことが難しくなっています。政治的な分裂が深刻化するアメリカでは、バランスの取れたメッセージをしようとする牧師は、右からも左からも攻撃されます。実際に思慮深く全体を見て、現状の本質を見定めることは難しく、極端なスタンスから反対極端を批判することがあまりにも簡単だからです。
ウクライナでの戦争に関しても同様です。どちらかの側に軸足を置いたメッセージをしたり、中身を伴わず平和を訴えるだけの反戦のメッセージをすることが支持されやすい一方、広い観点から見てことの本質を捉えようとするメッセージは、よくても「わかりにくい」と批判されたり、場合によっては「敵に肩入れしている」と批判されることもあります。
そこで皆さんにお願いしたいことは、教会のリーダーたち、教師たちのために祈って欲しいのです。精神的に、そして霊的にサポートしてほしいのです。自分の教会のリーダーたちだけではなく、自分が所属している教派のリーダーたちだけではなく、全世界で人々が主の名を呼ばわる全てのところにおいてです。そして、それらの全ての所で、信徒たちがそのようなリーダーたちの言葉を聞き入れ、行動に移すように祈ってほしいのです。
それでも、私たちは世の中を大きく変えたり、この世を御国に変えたりすることはできません。それは、ミカ書のもうひとつの大きなテーマである「メシアによるリセット」(来週のメッセージ)を待たなければなりません。しかし、私たちの灯火は、私たちが置かれたこの場所を照らすでしょう。
また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
マタイ5:15〜16