八王子バプテスト教会通信

5月14日(母の日) 2023年5月14日

母の日

女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。

ヨハネ6:21

 

今日は、母の日です。今まで私は、母の日のメッセージをあまり書いてきませんでしたし、当教会でも母の日記念礼拝はあまり行ってきませんでしたが、今年は久々に母の日のメッセージを書こうと思います。

 

母の日のメッセージを今まであまりしてこなかったのは、「母親」というテーマが、多くの人が考える以上に複雑なものだからです。「妻」という立場は、「夫」と対になるものです。妻になるには、例えば一家の承諾を経て、「結婚式」という儀式を通してその家に迎え入れられたり、「入籍」という公の制度を通してその家に迎え入れられたりすることにより得られる、一種の社会的地位です。

 

一方、「母親」という立場は、望んでであっても望まなくても、性行為を通して妊娠し、その子を中絶せずに出産した時点で母親という立場に立ってしまうのです。しかも、その立場の責任は、一人の人間が大人になるまで続くとてつもなく大きく重たい責任で、離縁状一枚で解消できる「妻」の責任とは全く別レベルのものなのです。

 

教会の礼拝のメッセージを書くことが多い男性説教者のメッセージを見てみると、デボラやハンナのような、聖書の「女性ヒーロー」を讃えるものが多いようです。しかし、母親になる女性は、ほとんどの場合、ヒーローになりたくて母親になるのではありません。実際、ヒーローになりたくて母親になる人がいるのであれば、その子の人生は大丈夫だろうか、という不安も残ります。

 

そうではなくて、ほとんどの場合、女性が母親になるというのは、それがどういうことが十分に理解する機会もないまま、流れでその立場に立たされるのです。

「こんなはずではなかった」

「ここまで大変だとは思わなかった」

このような気持ちが、全世界のほぼ全ての母親が抱いたことがある気持ちでしょう。

 

マリヤも、イェスの夜泣きで睡眠不足に陥った時、自分は何をしているのだろう、と思ったはずです。ちなみに、一部のカトリック的な解釈の中では、イェスは聖なる子だったため、そのような俗的なことは一切なく、マリヤは一度もオムツを変える必要がなかた、というような話があります。実におかしな発想ですが、これはイェスが肉を通してこられたという、あがないの教理を根底から覆すものです。イェスが実際に肉を通して私たちの身代わりになるために来られたのであれば、イェスは、確実にオムツ替えが必要であり、確実に夜泣きもしたでしょう。時にはそのような育児ストレスで自殺寸前まで追い込まれる女性もいますが、マリアも確実にその道を辿ったはずです。

 

そのほかにも、母の日を複雑にしている要因があります。大好きで一生を共に遂げるつもりだった男性が、妊娠を知った途端に態度を変えて蒸発してしまったケース。望まない性の結果として妊娠してしまったケース。かと思えば、母親になることを熱望していながら、子に恵まれず、母の日に疎外感を感じる女性も少なくありません。

 

ほかにも要因があります。実の母親と良い関係が持てていなかったり、実の母親から見放されたりした場合。物心がついた時から母親がいなかった場合。逆に、子のために尽くしてきたものの、感謝もされずに疎遠にされてしまった場合。世の中、「うまくいかない」構造が非常に多くあり、そして母親業というのはその中でも理不尽な思いが多いものなのです。母親になって子が立派に育った場合、感慨無量でしょうが、それこそそこに至るまでの苦しみが多かったからです。そして、その苦しみや理不尽が顧みられる機会が社会の中においてあまりにも少ないのです。現在の日本においての深刻な少子化は、給付制度の問題や税制の問題というよりは、そのような理不尽な立場に立たされることを好まない若者が増えているからなのではないでしょうか。

 

そんなに辛いのであれば、責任放棄する人も出てくるのではないのでしょうか?確かにそれはありますが、意外に少ないのです。時にニュースでそのような事件を目にしますが、それがあまりにも異常な出来事であるためにニュースになるという要素が大きいのです。なぜ簡単に放り出さないのか?聖書にはこのように書いてあります。

 

女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。

イザヤ49:15

 

「ことがあろうか」という表現は、「そのようなことはまず絶対にないだろう」という強調です。なぜ主がそのように言われることができるのか?それは女性の遺伝子の中にそのような神の特性の一部を自ら組み込まれたからです。母親が母親たるのは、神にかたどって創造されているからなのです。

 

とはいえ、その素晴らしさが実感できるのはほんの一瞬で、大変さがほとんどでしょう。

 

イェスがこの地上で活動されていた時は、徹底的に社会弱者に目を向けられました。その中には、多くの女性や母親たちもいました。しかし、イェスはそのような人たちに一方的に全てを認めることはなく、きちんと筋を通されました。

 

そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。 そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。」

マタイ20:20〜22

 

「元祖モンスターペアレント」とも言われる箇所ですが、母親というのは自分に子に関してそれだけ必死なのです。

 

世界中に、様々な理不尽な立場に置かれながらも置かれたところで一生懸命咲いている人々がいます。今日は、その中で「母親」というものにスポットを当てて考えました。その母親の貢献に対して私たちは何ができるのか?年に一回、「お母さんありがとう」でチャラにするのではなく、年間を通して365日、自分がそれに応えるために何ができるだろうか?と考える機会になればと思います。そして、それは主に使えることにも直接繋がります。

 

あなたを生んだ父のいうことを聞き、年老いた母を軽んじてはならない。真理を買え、これを売ってはならない、知恵と教訓と悟りをも買え。正しい人の父は大いによろこび、知恵ある子を生む者は子のために楽しむ。あなたの父母を楽しませ、あなたを産んだ母を喜ばせよ。

箴言21:22〜25

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