み言葉を託された者:イザヤ(14)
起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。あなたの目をあげて見まわせ、彼らはみな集まってあなたに来る。あなたの子らは遠くから来、あなたの娘らは、かいなにいだかれて来る。その時あなたは見て、喜びに輝き、あなたの心はどよめき、かつ喜ぶ。海の富が移ってあなたに来、もろもろの国の宝が、あなたに来るからである。多くのらくだ、ミデアンおよびエパの若きらくだはあなたをおおい、シバの人々はみな黄金、乳香を携えてきて、主の誉を宣べ伝える。ケダルの羊の群れはみなあなたに集まって来、ネバヨテの雄羊はあなたに仕え、わが祭壇の上にのぼって受けいれられる。こうして、わたしはわが栄光の家を輝かす。雲のように飛び、はとがその小屋に飛び帰るようにして来る者はだれか。海沿いの国々はわたしを待ち望み、タルシシの船はいや先にあなたの子らを遠くから載せて来、また彼らの金銀を共に載せて来て、あなたの神、主の名にささげ、イスラエルの聖者にささげる。主があなたを輝かされたからである。異邦人はあなたの城壁を築き、彼らの王たちはあなたに仕える。わたしは怒りをもってあなたを打ったけれども、また恵みをもってあなたをあわれんだからである。あなたの門は常に開いて、昼も夜も閉ざすことはない。これは人々が国々の宝をあなたに携えて来、その王たちを率いて来るためである。あなたに仕えない国と民とは滅び、その国々は全く荒れすたれる。レバノンの栄えはあなたに来、いとすぎ、すずかけ、まつは皆共に来て、わが聖所をかざる。またわたしはわが足をおく所を尊くする。あなたを苦しめた者の子らは、かがんで、あなたのもとに来、あなたをさげすんだ者は、ことごとくあなたの足もとに伏し、あなたを主の都、イスラエルの聖者のシオンととなえる。あなたは捨てられ、憎まれて、その中を過ぎる者もなかったが、わたしはあなたを、とこしえの誇、世々の喜びとする。あなたはまた、もろもろの国の乳を吸い、王たちの乳ぶさを吸い、そして主なるわたしが、あなたの救主、また、あなたのあがない主、ヤコブの全能者であることを知るにいたる。わたしは青銅の代りに黄金を携え、くろがねの代りにしろがねを携え、木の代りに青銅を、石の代りに鉄を携えてきて、あなたのまつりごとを平和にし、あなたのつかさびとを正しくする。暴虐は、もはやあなたの地に聞かれず、荒廃と滅亡は、もはやあなたの境のうちに聞かれず、あなたはその城壁を「救」ととなえ、その門を「誉」ととなえる。昼は、もはや太陽があなたの光とならず、夜も月が輝いてあなたを照さず、主はとこしえにあなたの光となり、あなたの神はあなたの栄えとなられる。あなたの太陽は再び没せず、あなたの月はかけることがない。主がとこしえにあなたの光となり、あなたの悲しみの日が終るからである。あなたの民はことごとく正しい者となって、とこしえに地を所有する。彼らはわたしの植えた若枝、わが手のわざ、わが栄光をあらわすものとなる。その最も小さい者は氏族となり、その最も弱い者は強い国となる。わたしは主である。その時がくるならば、すみやかにこの事をなす。
イザヤ60章
今週からイザヤに戻ります。イザヤの最後の数章に描かれているのは、イスラエルの復興、人類救済、そして新しい天と地の壮大な構想です。特に、今日の箇所であるイザヤ60章では、いかに主がイスラエルを通して全人類を祝福するかが描かれています。
そもそも、神がイスラエルと契約を結ばれたのが、人類との初めての契約ではありませんでした。神は、アダムとエバを通しての契約、ノアを通しての契約、アブラハムを通しての契約、のように、何度も人類と契約を結ばれてきました。これらの契約は、神がいかに人類を救済して人類と共になることを切望しておられるのかを示すものでした。
そして、モーセを通しても契約を結ばれますが、モーセとの契約にはひとつの特徴がありました。それは、それまでの契約が全て無条件で一方的な祝福の契約だったのに対して、モーセを通しての契約は条件付きの契約だったことです。与えられた律法を守れば、祝福されるというものでした。つまり、主との関係がどれだけ素晴らしいかを万民に示すための「モデルハウス」や「モデルルーム」ならぬ、「モデル民族」になるというものでした。大人しくしていれば、祝福と繁栄が約束される、生活しているだけで恵まれる、という夢のような仕事がイスラエルに与えられたのです。
しかし、これに対してイスラエルが激しく抗います。結果的に、歴史を通しての多くの場面においては、イスラエルは「従えば祝福される」のモデルになることができず、「従わなければ罰せられる」という反面教師にしかなることができなかったのです。
しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。しかしわたしは言う、彼らには聞えなかったのであろうか。否、むしろ「その声は全地にひびきわたり、その言葉は世界のはてにまで及んだ」。なお、わたしは言う、イスラエルは知らなかったのであろうか。まずモーセは言っている、「わたしはあなたがたに、国民でない者に対してねたみを起させ、無知な国民に対して、怒りをいだかせるであろう」。イザヤも大胆に言っている、「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、わたしを尋ねない者に、自分を現した」。そして、イスラエルについては、「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」と言っている。
ローマ10:16〜21
イスラエルは時代を通して自分たちに与えられた約束を様々な形で勘違いしてきましたが、その中で最も顕著なのが「選民思想」でしょう。確かに、主はアブラハムを選ばれました。確かに、主はアブラハムの子孫をご自分の民として立てられました。しかし、主がアブラハムやイスラエルを選ばれたのは、アブラハムやイスラエルが他の民族よりも先天的にはるかに優れていたからではありません。主がアブラハムやイスラエルを選ばれたのは、全人類を救済し祝福するというご計画のためでした。その中で、イスラエルは謙虚に従えば祝福されることが約束されていました。
ところが、イスラエルの人々は、時によっては自分がちが選民であるからどのように振る舞っても祝福されるはずだと勘違いしたり、また別の時には他国の王室のあり方を見て自分たちの国の在り方がダサい、と勘違いしたりしていました。主の壮大なご計画の言葉が自分たちの中にあるのにも関わらず、それに目もくれずに、自分たちが模範を示さなければならないこの世の人々に憧れてついていってしまったのです。
これはまるで、喫煙外来の医者が、患者に禁煙を勧めてその治療に励むべきところ、患者の喫煙に憧れて職務を放棄し、喫煙者になってしまうようなものです。まさに「本末転倒」です。
そして、何度も申し上げていることですが、これらのことが書かれたのは、今の私たちが過去の人々の失敗を笑いものにするためではなく、私たちも放っておけば同じ失敗をするから書かれたものなのです。
これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
Iコリント10:11〜13
ここまで見てきているように、主はご自身のご計画に対して大変な情熱と執念を持っておられます。そのご計画のために私たちが用いられるのであれば、この世では苦難があっても祝福に迎え入れられますが、私たちが用いられることを拒む、あるいは自分の思い込みで身勝手な歩みをするならば、主は私たちを打ち捨てて他の者にご自分の計画を託されるでしょう。わたしたちの生き方が、反面教師にしかならないものになるのではなく、人々に勇気と希望を与えて、信仰の道に進むことを促すことになるようにしたいものです。
試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう
ヤコブ1:12