八王子バプテスト教会通信

4月23日のメッセージ 2023年4月23日

復活祭(エピローグ2)

イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

マタイ28:18〜20

 

今週の話を持って復活祭関連のシリーズを閉じたいと思います。先週は、「エピローグ」としなければならないところを「プロローグ」としてしまい、大変失礼しました。今週は「エピローグ2」です。

 

さて、よみがえられたイェスは、天上天下の全権を与えられたと弟子たちに述べます。それならば、イェスはここで弟子たちと共に、み国を築いてもいいのではないか?と弟子たちは考えたでしょう。しかしイェスの言葉は、「それゆえに、あなたがたは行って」という、宣教の「至上命令」の言葉でした。「さぁ、これからが本番だぞ」と言わんばかりに。そして、この地上での弟子たちとの時間もそこそこに、世界宣教へと送り出します。ヨハネ以外は、全員、宣教の中で殉教したとみられています。

 

弟子たちにその時に見えていなかったのは、主が悠久の時を経て進めてきた、神と人との和解、神と人が共に住まう世界の実現でした。イェスは以前からもこのことに言及していたのですが、弟子たちはそれを理解できずにいました。

 

わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。

ヨハネ10:16

 

ユダヤ人だけではなく、全人類を対象とした壮大な計画です。そしてそのために、弟子たちは今から安息を考えている場合ではないのです。この壮大な計画の実行役になってもらわなければならないのです。彼らはいまだにそれが理解できていませんでしたが、彼らの理解を大きく変える一連の出来事が起こります。そこからは、彼らは後を振り返らなくなります。

 

さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。

使徒行伝1:6〜11

 

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。」

使徒行伝2:1〜18

 

この後のペテロの名演説はご存知の通りです。そしてこの後、教会は世界宣教時代に突入していきます。

 

弟子たちは、最初にイェスに「私に従ってきなさい」と言われた時、まさかこのようなことになるとは想像していなかったでしょう。それと同様に、私たちも初めて主に心を開いた時には、そのような大計画に携わることになるとは思わなかったでしょう。そもそも、人が主にゆるしと救いとを求めるときは、自分の心と自分の罪とで精一杯なのです。このような私を助けてください、という思いでいっぱいなのです。

 

しかし、その思いは主のご計画を変えるものではありません。主はそのような私たち一人一人に寄り添いながらも、ご計画の中での立ち位置と、やがては御国の中での居場所を用意してくださっているのです。

 

はやく一緒になりたい、いつまでも一緒にいたい、という気持ちは、私たちだけではなく、主も同じです。いや、主の方が私たちよりもはるかに強くそのような思いをお持ちでしょう。だから、それだけの犠牲を支払われたのです。しかし、その実現にはその時があります。一方、私たちは、今でも、主とともに住む世界を垣間見ることができる場所があります。それは、教会です。イェスが「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と約束されたのは、弟子たち個人ではありませんでした。なぜなら、その個人たちはとうの昔に天に召され、この地上にはいないため、この約束は無くなってしまったはずです。

 

イェスがこの約束の言葉を述べられたのは、教会という、永久に不滅の、この地上におけるキリストの体に対してです。私たちもその一部であるならば、その約束とその役割とを担い続けます。そしてその中で、私たちは主とも常に共にいるのです。

 

悲しみつきざるうきよにありても

日々主と歩めばみくにのここちす

 

ハレルヤ!罪とが消されし

我が身はいずくにありともみくにのここちす

 

かなたのみくにはみかおのほほえみ

はいするこころの中にもたてらる

 

山にも谷にも小屋にも宮にも

日々主とすまえばみくにのここちす

 

「みくにのここちす」 聖歌467番

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