八王子バプテスト教会通信

4月16日のメッセージ 2023年4月16日

復活祭(エピローグ)

そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。

ヨハネ21:1〜22

 

イェスは墓からよみがえって、すでに2度、弟子たちに会っています。しかし今日のイェスは、その弟子たちを巡って、少し余計な仕事があります。というのは、ペテロが他の弟子たちを誘って、弟子業を廃業し、漁師に戻ろうとしていたのです。そう、「わたしは漁に行くのだ」の言葉は、「たまには釣りにでも行くか」という意味ではなく、「元の漁師に戻ろう」という意味だったのです。

 

しかし、彼らはすでにイェスに会っています。イェスが完全に亡くなってしまい、もう何も続けるものがないと確信したならばともかく、なぜイェスがよみがえってこの地上にいらっしゃることを知っていながら弟子廃業を宣言するのはおかしいのではないか?そう考えるのは西洋の発想です。

 

しかし、イェスや弟子たちは西洋人ではなく、アジア人でした。そして、アジア人ならば、イェスの弟子たちがこのときに感じていたことが理解できるでしょう。つまり、自分たちは命を捨ててでもイェスを捨てて逃げることはしないと誓ったものの、イェスがいざ逮捕されると、全員が蜘蛛の子を散らすように逃げてしまったのです。そこで、彼らは考えています。以前は自分たちがイェスの弟子であることに対して大変なプライドを持っていましたが、今となってはプライドどころか、イェスの弟子を名乗ること自体許されないだろう、大変な恥と屈辱の中にいました。特に、ペテロが深刻でした。

 

ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。

マタイ26:69〜75

 

イェスはこのペテロの心理状態が気がかりでした。人一倍大きなことを言ってしまっただけで、人一倍へこんでいます。ペテロはイェスとの和解を望んでいないわけではなく、ただ自分にはそのような価値がもはやない、というとてつもない自己嫌悪に陥っているのです。

 

他の弟子たちも、ここ1ヶ月の出来事が夢物語とも悪夢ともつかないような、ジェットコースターの激しいアップダウンの繰り返しのようなものでした。イェスがナザレの安全を離れてエルサレムに行くと宣言されたときには、全員が自分たちも一緒に死ぬかもしれないと腹を括って出かけました。しかし、イェスがエルサレムでロバに乗って自らの戴冠式を執り行うと、群衆は大喜びで迎え入れてくれました。しかしことは急変、最後の晩餐の直後にイェスは逮捕されそのまま処刑、弟子たちは一転してお尋ね者になります。そのようにして身を潜めている弟子たちに、よみがえられたイェスが現れたのです。もう、何がなんだかわかりません。

 

このように、弟子たちにとっては事態が好転と暗転を繰り返しているようにしか思われなかったのですが、実は、全ては神のご計画通りに進んでいたのです。人間の側からすれば、「こうであればいい、いつまでもずっとこうであればいい」というものがあったにしても、それが主のご計画であるとは限りません。そこで、人間の想いと神のご計画の間に乖離が生じると、人間の側は、自分が振り回されている、運命に翻弄されている、と勝手に思い込んでしまうのです。

 

さて、魚の入った網を陸に上げて、朝食です。弟子たち、そして特にペテロにとっては、今までに経験したことがないほど気まずい時間が流れたことでしょう。そして、イェスがペテロに対して口を開きます。

 

「ペテロよ、お前はこの仲間より、私を愛しているか?」

 

「何を言ってるんですか、私があなたを愛していることは、ご存知でしょう!」

 

このやりとりには、日本語にも英語にも現れない言葉の駆け引きがあります。日本語では「愛」、英語ではloveとなっていること単語は、原文のギリシャ語では使い分けられているのです。イェスがペテロに対して使った言葉は「アガペ」です。神の愛、「聖愛」です。これに対してペテロが使った言葉は、「フィレオ」、友情という言葉です。(この点から聖書をもっと詳しく理解されたい方には、C.S.ルイス著「四つの愛」をお勧めします)

 

この問答を3度繰り返すと、ペテロはいたたまれなくなります。その様子をご覧になったイェスは、ペテロに弟子復帰を宣言します。お前は今まで自由奔放にやってきたが、今後は私の弟子として苦しみを受けることになる。私について来なさい、と。

 

私たちが何か大きな失敗をしてしまい、恥ずかしくて仕方がない、もう前向きに歩くことはできない、と思っているときには、この一連の出来事を思い起こすべきでしょう。失敗したから私はダメだ、という心理は、「私は失敗しないはずだ」という、無意識にひそむ傲慢からくるからです。自分が失敗していないと思っている時から、主から見れば私たちは失敗だらけで、それも含めて私たちを愛してくださるのです。

 

また、私たちに一時的な苦難が訪れたときにも、私たちは途方に暮れるべきではありません。弟子たちがイェスの逮捕や処刑を絶望的な事態と捉えてしまいましたが、全ては神の壮大なご計画、「神が人と共に住まう」世界の実現へのプロセスの一歩だったのです。神のご計画は変わらず着々と進んでいます。そういえば、この点についても一度、イェスとペテロの間でこのようなやり取りが交わされました。

 

この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

マタイ16:21〜23

 

私たちが待ち望んでいるのが義と平和の住む新しい世界であるとするならば、そのことを表すような生き方をこの世においてするべきでしょう。

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