復活祭(3)
週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。ところが、石が墓からころがしてあるので、中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。そこで女たちはその言葉を思い出し、墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。
ルカ24:1〜11
ここに、イェスが以前から言われていたよみがえりの言葉を信じずに動いていた人々の行動が記録されているようにも読めてしまいますが、これは結末を知っている私たちがそれを知らない人たちあざ笑うために記録されているのではなく、私たちが同じ誤りを犯さないように記録されている言葉です。
女性たちは、香料を持って墓地に行きました。この香料は、埋葬のためのものです。よみがえった人のためのものではなく、死者のためのものです。確かに、イェスはご自分がよみがえると言われていました。しかし、イェスは頻繁に、周囲にとっては不可解なことを言われていました。それに対して、彼女たちはついおととい、強烈な経験をしたばかりでした。
さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。
ヨハネ19:25〜30
彼女たちは、まさかこのようなことが起きるとは夢にも思っていなかったでしょうが、それが目の前で起きてしまったのです。イェスが十字架の上からでも天の助けを呼んで敵を打ち負かして助かることに期待をかけていた人々もいたのでしょうが、イェスは十字架の上から「全てが終わった」と宣言され、絶命されました。
そこで、誰もが思ったでしょう。もう二度と、イェスの優しいまなざしを見ることができない。そのみ声を聞くことができない。ともに歩み、ともに飲食をした日々は永遠に過去のものになってしまった。いつまでもここにいてくださると思っていた方が、普通の人のように亡くなってしまったと。強烈な経験でした。
そこで、彼女たちは、イェスが普通の人のように亡くなってしまったのであれば、せめて、普通の人のように埋葬してあげなければならないと考えたわけです。イェスの遺体がアリマタヤのヨセフが用意した墓(横穴式の洞窟)に納められたのだから、そこにあるはずだと。いや、「はず」とさえ考えなかったでしょう。しかし、この「はず」の発想は、私たちの日常生活では非常に便利な常識ですが、主のことに携わるときには、私たちにとって非常に厄介なものになってしまうのです。
そこで、私たちは、「見えるものではなく見えないもの」に着目して生きる癖をつける必要性を、今年の復活祭で思い起こすことにしたいと思います。人間の肉の世界の「はず」の常識が、私たちの信仰の歩みにとってあまりにも大きな障害になりうるからです。
「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。耳を傾け、わたしにきて聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる。わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。見よ、わたしは彼を立てて、もろもろの民への証人とし、また、もろもろの民の君とし、命令する者とした。見よ、あなたは知らない国民を招く、あなたを知らない国民はあなたのもとに走ってくる。これはあなたの神、主、イスラエルの聖者のゆえであり、主があなたに光栄を与えられたからである。あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
イザヤ55:1〜9
私たちは、日常的には、人間の「常識」が必須のツールである世界に住んでいますが、私たちの永遠の魂もその肉の世界のルールに束縛してしまっているのではないのでしょうか?私たちの魂には別の世界の別の常識生きることを許さなければいけないのです。
だからと言って、私たちは自分のこの肉の衣をおろそかにしてはなりません。これも、主からの預かり物で、この地上にある短い間、この地上のもので養わなければならないからです。イェスも、「大酒飲みの大食漢」と揶揄されるほど、よく食べ、よく飲まれました。
その他にも、私たちは大切なものを、「そこには無いよ」と言われるようなところに探していることはないでしょうか?一過性のこの世のものの中に、それを超えた、より高いものを探しているということはないでしょうか?一時的に存在するものの中に、永遠の意味を求めているということはないでしょうか?クリスチャンとしては、ときにこの様な勘違いに悩むこともあるでしょう。
そのために、私たちは普段から3歩先に焦点を合わせるのではなく、来るべき都の焦点を合わせた上で、3歩先の歩みの意味を理解して歩むべきでしょう。
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。
ヘブル11:13〜16