復活祭(1)
もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。
Iペテロ2:19〜25
先週はイザヤから「打たれたメシア」を考えました。そして、そこにあるキリストの愛が私たちに強く迫り、私たちを駆り立てるということも考えました。
そこまで大きな主の愛に対して、私はどのように応えれば良いのだろうか?先週の話の中で、看護師になるために全力を注いだ女性がいました。このようなはっきりした人生目標がある人は良いのですが、私たちの多くはそうではありません。サラリーマンであったり、主婦であったり、学生であったり。人生の目的達成に直結しない日々が来る年も来る年も続きます。その中で、主が私のためにあれだけ苦しまれたのに、私だけこんなのダラダラした日々を過ごしていて良いのか?私も主のために苦しまなくて良いのか?という考えを時に抱く方も少なくないはずです。
そのような気持ちの受け皿として、また統制の手段として、とある仕組みが考案されました。ただし、キリストの教会によってではなく、国教によってです。それは、「四旬節」という、一種の苦行です。
これが導入された背景は様々ありますが、最大の理由のひとつが、国教がキリストの復活を祝う祭りとして導入した、東方の偶像の祭り、「イースター」でした。キリストの復活は当初から記念されていましたが、楚々としたものでした。それに対して「イースター」は「豊穣祭」の一種で、暴飲暴食、酒池肉林を伴いがちなものでした。このような展開を少しでも食い止めようと、その前40日間は断食と祈りに専念しよう、というものでした。なぜ40日かというと、イェスが荒野で40日の断食ののちに悪魔による試みに打ち勝ったから、ということです。
当然、一般の人がこのようなことをすることができるはずがありません。仕事があり家庭があるのですから。そのために、一般の人が少しでも「プチ苦行」ができるようにといろいろな策が講じられました。最も典型的なのが、美味しい食物を断つ、というものでした。40日間も美味しいものを食べなければ、確かに苦しいといえば苦しいです。ただ、ここにも問題がありました。お金持ちは毎日贅沢なものを食べているので、それを絶てば苦行感を味わえるのですが、下級社会の人々は毎日生きて行くだけで必死ですので、ほとんど変化が無い、という不平等が生じるのです。
さらにそこに加えられた考え方は、では各自、その40日間は自分が大好きな何かを断つ、というものでした。これは人によっては様々ですので、少しは平等感があります。人によっては肉料理であったり、酒であったり、娯楽であったり、と。そのため、今でも四旬節のために何かを40日間断つという風習(儀式)が継承されている宗派があります。
しかし、ここまで来るとさすがに人為的すぎて、軽視されがちであるというのも事実です。非常に信心深い方々にとってはそうではありませんが、そのような方はこの様な仕組みがなくても信心深く生きるはずですので、必要ないはずです。今のアメリカでも、次のようなジョークが時に聞かれます。
神父:「あなたは、今年の四旬節は何を断ちますか?」
信徒:「そうだな、今年は教会に行くのを控えるかな」
当然過ぎる結末です。「御足の跡を踏み従う」とは程遠いものです。
また、「御足の跡を踏み従う」をまた別の方法で実践しようとする人々もいます。それは、「ドロローサの道」を歩くというものです。聖地巡業の旅に伴うもので、ピラトの官邸からゴルゴダの丘まで、キリストが歩いたと想定される道を、主の受難を想い歩くというものです。世界中から巡業者がこのために聖地を訪れます。中には、十字架の模型を背負って歩く人の姿もあります。
もちろん、聖地をこの様に歩くこと自体には全く問題がありません。私も、できることならば人生のどこかで行ってみたいものです。しかし、そうすることによって何か「御足の跡を踏み従う」を達成できたとか、少しでも主に近づいたとか思ってしまったなら、それはとんでもない勘違いです。
多くの宗教に、この様な「儀式的再現」があります。過去のある出来事をなぞる行為を執り行うことによって、その効果を今にもたらすという発想です。いうまでもなく、聖書にはその様な教えはありません。唯一私たちに命じられているのは、主の盃とパン、そして主の死・埋葬・復活を伝えるバプテスマです。それ以外の再現行為は全て人が好んで行なっていることだけです。ましてやその行動によりご利益や神通力が得られると思ってしまったら、それは偶像崇拝に他なりません。
同様に、祈りに専念するために肉や酒を断つのも全く問題ありませんし、良いことでしょうが、それによって主の祝福の手をこじ開けることができると思ってしまったら、それは主にとって侮辱です。
では、私は復活祭までの期間、どの様に過ごせば良いのか?いつもと同様に過ごせば良いのですが、ポイントはその「いつものように」がどうであるべきかです。
貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。
ローマ12:13〜17
御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
IIテモテ4:2
今の時を生かして用い、そとの人に対して賢く行動しなさい。いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。
コロサイ4:5〜6
ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。
Iペテロの3:15
キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。御霊を消してはいけない。預言を軽んじてはならない。あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。
Iテサロニケ5:10〜22
リストはつきませんが、私たちは、仮に大きな苦行を行うことがなくても、ドドローサの道を歩かなくても、この様に日々を過ごせば、主の受難に応えて「御足の跡を踏み従う」者となるのです。