み言葉を託された者:イザヤ(13)
だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。
イザヤ53章
イザヤ書のひとつの特徴は、「打たれたメシア」が明確に描かれていることです。しかし、これは独自のことではなく、「私の罪の罰を、罪なき者が背負われた」というのが創世記から黙示録に至るまで、聖書の主要テーマです。
主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
創世記3:21
ここで「皮」とありますので、これは何らかの動物の皮です。それが羊であるのかどうかはわかりませんが、人間の罪のために犠牲になった動物の第一号であることに間違いはありません。それと同時に、キリストの予型の第一号でもありました。そして、この世の終わりにおいても主題です。
さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。
黙示録5:11〜14
このようにして、私たちはキリストの一方的な犠牲により、罰を逃れ、栄光に至ることができるのです。しかし、だからと言って、私たちは自分で自分を清めたかのように大手を振って歩くことはできないでしょう。今の自分があるのは、誰かが自分を愛し、自分のために大きな犠牲を支払ったのですから。
一方、私たちは自分で自分を贖うことができず、主によって主によって贖われなければならなかったことで、自分が理想の自分像に満たないことに対して腐るのも間違いです。それは、造った者と作られた者の違いを完全に勘違いしていることになってしまいます。実は、これこそがルシファーの大罪なのです。
そもそも、主が目的とされているのが何であるのかを思い出しましょう。それは、創り主である主と、人とが共に住まう世界です。創り主のようになれなかった人が屈辱に打ちひしがれて生きる世界ではありません。
ここで、話は少し飛びますが、私はこのような女性を知っています。彼女は当初は好き勝手に生きていましたが、ある大病がきっかけで人生が一転しました。というのは、そのままでは確実に命を落としてしまう大病の中で、一人の看護師が彼女の話を信じて医師に再検査を勧め、それがきっかけで適切な医療行為が行われて一命を取り留めたのです。
彼女はその後、その看護師に感謝の念が尽きず、それに対して何ができるかと考えたとき、自分も看護師になって同じように人にしてあげるしかない、と考えるようになりました。復学した彼女は、それまではあまり取り組んでこなかった勉学に必死に取り組み、奇跡的なV字復帰を見せて見事に看護師になりました。
なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
IIコリント5:14〜15
助けられたことに対する感謝が周囲に広がるのが人間の間で当たり前であるのならば、主に贖われた者にとってはさらに当たり前のことではないのでしょうか?ご自分を犠牲にされるために来られたキリストご自身、私たちに与えられる生き方についてこのように述べています。
そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。
ヨハネ10:7〜18
あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
Iコリント6:19〜20