八王子バプテスト教会通信

3月12日のメッセージ 2023年3月12日

み言葉を託された者:イザヤ(12)

主は強いみ手をもって、わたしを捕え、わたしに語り、この民の道に歩まないように、さとして言われた、「この民がすべて陰謀ととなえるものを陰謀ととなえてはならない。彼らの恐れるものを恐れてはならない。またおののいてはならない。あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない。主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となり、わなとなる。多くの者はこれにつまずき、かつ倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられる」。わたしは、あかしを一つにまとめ、教をわが弟子たちのうちに封じておこう。主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。見よ、わたしと、主のわたしに賜わった子たちとは、シオンの山にいます万軍の主から与えられたイスラエルのしるしであり、前ぶれである。人々があなたがたにむかって「さえずるように、ささやくように語る巫子および魔術者に求めよ」という時、民は自分たちの神に求むべきではないか。生ける者のために死んだ者に求めるであろうか。ただ教とあかしとに求めよ。まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない。彼らはしえたげられ、飢えて国の中を経あるく。その飢えるとき怒りを放ち、自分たちの王、自分たちの神をのろい、かつその顔を天に向ける。また地を見ると、見よ、悩みと暗きと、苦しみのやみとがあり、彼らは暗黒に追いやられる。しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、彼らは刈入れ時に喜ぶように、獲物を分かつ時に楽しむように、あなたの前に喜んだ。これはあなたが彼らの負っているくびきと、その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、ミデアンの日になされたように折られたからだ。すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。

イザヤ8:11〜9:7

 

復活祭が1ヶ月内に迫っていますので、少しずつ舵をその方向に切っていこうと思うのですが、イザヤ書はそのためにも良い題材がたくさん詰まっています。実際、キリスト教の最大の「お祭り」はクリスマスのイースターであるというような言い方がされていますが、いずれも罪なき者が私たちの身代わりになり、私たちの代わりに私たちの罪の罰を受けるという趣旨ですので、「お祭り」とか「お祝い」とか、そう簡単に言える話ではないように思えます。

 

イザヤ書は、裁きの言葉と祝福の言葉とがモザイクのように入り混じって書かれているのがひとつの特徴です。裁きの言葉からは、神が望まれないものが何であるのか、そして祝福の言葉からは、神が望まれるものが何であるのか、がそれぞれ読み取れます。特に、祝福の言葉からは長い目で見た主のご計画も見て取れます。

 

ここしばらくは、アハズ王とヘゼキヤ王が周囲の国際状況に翻弄され、その中で主に従ったり従わなかったりした様子を見てきました。確かに、イザヤが活躍した時代は、国際社会の状況が大きく変わっている状況でした。世界史の大変動の時代でした。この時代には、ローマが興り、新生バビロンが興り、ギリシャでは最初のオリンピックが行われ、エジプトが衰退を始めて単なる一プレーヤー、「ワン・オブ・ゼム」の地位に堕ちかけていました。様々なところで今までの常識が通用しないような国際社会状況で、誰もが大変不安になっていました。

 

そこで、究極に不安になった時にいざ頼るものは何でしょうか?周囲を見渡した時に何が見えるでしょうか?ひとつの出来事が思い出されます。

 

それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。それから、彼らは海を渡ってゲネサレの地に着いた。

マタイ14:22〜34

 

ここにおけるペテロの気持ちは、「主がおられるが、それ以上に波風が怖い」というものでした。至って正常な人間の心理です。「波風は怖いが、主がおられるからそれ以上に安心だ」とはなかなかなりません。これは、私たちの自然の心理、私たちの気持ちが私たちにとってどれだけ破壊的で危険なものであるかを警告しているものでもあります。

 

主は長期的なご計画の中で私たちのために様々な素晴らしいものを用意してくださっているのですが、私たち人間は極端に短絡的な、動物的な反射本能で目の前にある事態に反応してしまいます。

 

我が家では水槽で魚を飼っています。多少人に慣れていますが、餌やりの時に餌のサジが誤って魚体に触れてしまった時、ものすごい勢いで泳いで逃げ回ります。今回の話から、この様子が思い出されました。

 

イスラエルの人々は、変動する社会情勢に振り回され、口寄せや巫女に信頼を置くようになりました。目の前に示されている、より長期的な祝福に目もくれず。

 

私たちの今の社会も、数年前までは誰も想定しなかったような不安定な状況に置かれています。当然くるだろうと思われた未来社会が実現するのか、わからない状況になっています。そこで、復活祭までのこの1ヶ月間、主が私たちのために準備されている未来、主のご計画も合わせて学んでいきたいと思います。

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