み言葉を託された者:イザヤ(10)
そのころ、バラダンの子であるバビロンの王メロダクバラダンは、手紙と贈り物を持たせて使節をヒゼキヤにつかわした。これはヒゼキヤが病んでいることを聞いたからである。ヒゼキヤは彼らを喜び迎えて、宝物の蔵、金銀、香料、貴重な油および武器倉、ならびにその倉庫にあるすべての物を彼らに見せた。家にある物も、国にある物も、ヒゼキヤが彼らに見せない物は一つもなかった。その時、預言者イザヤはヒゼキヤ王のもとにきて言った、「あの人々は何を言いましたか。どこからきたのですか」。ヒゼキヤは言った、「彼らは遠い国から、バビロンからきたのです」。イザヤは言った、「彼らはあなたの家で何を見ましたか」。ヒゼキヤは答えて言った、「わたしの家にある物を皆見ました。わたしの倉庫のうちには、わたしが彼らに見せない物は一つもありません」。そこでイザヤはヒゼキヤに言った、「主の言葉を聞きなさい、『主は言われる、見よ、すべてあなたの家にある物、および、あなたの先祖たちが今日までに積みたくわえた物の、バビロンに運び去られる日が来る。何も残るものはないであろう。また、あなたの身から出るあなたの子たちも連れ去られ、バビロンの王の宮殿で宦官となるであろう』」。ヒゼキヤはイザヤに言った、「あなたが言われた主の言葉は結構です」。彼は「せめて自分が世にあるあいだ、平和と安全があれば良いことではなかろうか」と思ったからである。
II列王紀20:12〜19
命を取り留めて猶予の15年をもらったヘゼキヤは、すっかり上機嫌になっていました。そこへ、バビロンから使節団がやってきます。当時のバビロン国王メロダクバラダンが、ヘゼキヤが大病を患っていると聞いて、お見舞い外交をしたのです。
年表の上で見ると、バビロン捕囚の時期が着々と迫ってきています。ということは、このメロダクバラダンはネブカデネザルの先祖?いや、メロダクバラダンとネブカデネザルは同じバビロンでも、王朝自体が異なるので、全く無関係です。ただ、情報は連綿的に引き継がれていきます。
さて、このお見舞い外交に気をよくしたヘゼキヤは、彼らを惜しげなく贅沢にもてなしました。使節団をもてなすことは、すなわち使節団を遣わした人をもてなす事だからです。そして、その中で、国の財宝、王家の財宝、神殿の財宝を、すべて使節団に見せます。
何という愚かなことか!見せたら取りに来るに決まっているだろう!と思われるかもしれませんが、一概にそうとも言えません。天下を取った戦国武将秀吉は、有り余る富を来客に見せつけることで戦意喪失させるという手法をとっていました。今回の行動も、意味あってなされたことですが、秀吉の策とはまた別物です。
突然、ここで話がジャズに飛びます。曲は、”Come on-a My House”です。1951年に、アメリカでローズマリー・クルーニーがヒットさせ、翌1952年には日本でジャズ・シンガーの江利チエミが和名「家(うち)においでよ」でヒットさせます。
https://www.youtube.com/watch?v=O6HoFaYPYs4
曲の内容は、人を家に招き、家を明けびらかして豪勢にもてなすというものです。
なるほど、確かにヘゼキヤはそうしたわけだが、それでもメッセージにわざわざ70年前のジャズヒットを持ち込むことだろうか?
いえいえ、ここにはもうひとつ伏線があるのです。この曲の歌詞を書いたのは、アメリカの20世紀の文豪のウィリアム・サローヤンと、そのいとこのロス・バグダサリアン、後にアメリカ音楽界の重鎮になる人物です。ポイントは、二人はアルメニアからの移民一族だったことです。そしてこの曲は、祖国での風習、客人を豪勢にもてなす様子をこの曲に込めたのです。
ところで、アルメニアとはどこの国?世界地図で探してみると、今の聖書の物語が展開されているユダヤやシリアから少し北に行ってみるとあります。中東の北の外れの小国です。つまり、文化圏としては、ユダヤも、やがてアルメニアという国家になるウラルトゥ王国も、同じ文化圏に属し、同じような風習を持っていたのです。ヘゼキヤは、その地方のもてなしをしたまでのことだったのです。そもそも、この地方での「すべてを見せる」というのは、財力を自慢するという趣旨ではなく、「私はあなたを信頼しています」のしるしなのです。
ただ、ヘゼキヤが忘れてしまっていたのは、自分が預かっていたのがそこいらの一国ということではなく、周囲の国とは全く異なる存在である神の民であるということでした。ダビデは軍事力を誇示してその存在を示し、ソロモンは富を誇示してその存在を示しましたが、ヘゼキヤは単に「周囲に好かれる、いいヤツ」になろうとしていたことが伺えます。これは、主が意図されたこととは違います。
きょう、あなたの神、主はこれらの定めと、おきてとを行うことをあなたに命じられる。それゆえ、あなたは心をつくし、精神をつくしてそれを守り行わなければならない。きょう、あなたは主をあなたの神とし、かつその道に歩み、定めと、戒めと、おきてとを守り、その声に聞き従うことを明言した。そして、主は先に約束されたように、きょう、あなたを自分の宝の民とされること、また、あなたがそのすべての命令を守るべきことを明言された。主は誉と良き名と栄えとをあなたに与えて、主の造られたすべての国民にまさるものとされるであろう。あなたは主が言われたように、あなたの神、主の聖なる民となるであろう。
申命記26:16〜19
では、今日の神の民である私たちはどのように生きるべきでしょうか?
愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。
ローマ12:9〜18
可能な限り、すべての人と平和に過ごすということですが、これは世間と迎合して妥協することによって衝突を避けるということではなく、清い生き方を通して実現することです。
このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。
テトス2:14
最後にヘゼキヤは残念な言葉で終わります。
ヒゼキヤはイザヤに言った、「あなたが言われた主の言葉は結構です」。彼は「せめて自分が世にあるあいだ、平和と安全があれば良いことではなかろうか」と思ったからである。
あれだけ生涯を主の働きのために捧げておきながら、最後は、自分さえ良ければいい、ということになってしまったのです。いくら良い人であっても、肉の法則が働いているということです。私たちも自分の足と心を守ようにしましょう。