み言葉を託された者:イザヤ(7)
イスラエルの王エラの子ホセアの第三年にユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。彼は王となった時二十五歳で、エルサレムで二十九年の間、世を治めた。その母はゼカリヤの娘で、名をアビといった。ヒゼキヤはすべて先祖ダビデがおこなったように主の目にかなう事を行い、高き所を除き、石柱をこわし、アシラ像を切り倒し、モーセの造った青銅のへびを打ち砕いた。イスラエルの人々はこの時までそのへびに向かって香をたいていたからである。人々はこれをネホシタンと呼んだ。ヒゼキヤはイスラエルの神、主に信頼した。そのために彼のあとにも彼の先にも、ユダのすべての王のうちに彼に及ぶ者はなかった。すなわち彼は固く主に従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。主が彼と共におられたので、すべて彼が出て戦うところで功をあらわした。彼はアッスリヤの王にそむいて、彼に仕えなかった。彼はペリシテびとを撃ち敗って、ガザとその領域にまで達し、見張台から堅固な町にまで及んだ。ヒゼキヤ王の第四年すなわちイスラエルの王エラの子ホセアの第七年に、アッスリヤの王シャルマネセルはサマリヤに攻め上って、これを囲んだが、三年の後ついにこれを取った。サマリヤが取られたのはヒゼキヤの第六年で、それはイスラエルの王ホセアの第九年であった。アッスリヤの王はイスラエルの人々をアッスリヤに捕えていって、ハラと、ゴザンの川ハボルのほとりと、メデアの町々に置いた。これは彼らがその神、主の言葉にしたがわず、その契約を破り、主のしもべモーセの命じたすべての事に耳を傾けず、また行わなかったからである。ヒゼキヤ王の第十四年にアッスリヤの王セナケリブが攻め上ってユダのすべての堅固な町々を取ったので、ユダの王ヒゼキヤは人をラキシにつかわしてアッスリヤの王に言った、「わたしは罪を犯しました。どうぞ引き上げてください。わたしに課せられることはなんでもいたします」。アッスリヤの王は銀三百タラントと金三十タラントをユダの王ヒゼキヤに課した。ヒゼキヤは主の宮と王の家の倉とにある銀をことごとく彼に与えた。この時ユダの王ヒゼキヤはまた主の神殿の戸および柱から自分が着せた金をはぎ取って、アッスリヤの王に与えた。
II列王紀18:1〜16
み言葉を託された者、イザヤの話ですが、ここしばらくはヘゼキヤ王の話になります。とは言っても、無関係な話ではなく、切っても切り離せない関係の話です。先週の話では、暴君アハズが自ら進んでユダをアッシリアの属国とし、好き放題やっていました。イザヤの話には耳も貸しません。
それに対して、息子のヘゼキヤはイザヤの言葉と主の言葉に信頼をおき、実行に移します。国内から偶像を一掃し、エホバ以外の崇拝を禁止します。モーセが造った青銅のヘビもこの時まで大切に保存されていましたが、崇拝の対象になっていたので、これも破壊しました。さらに、父アハズがアッシリアの属国にしたユダを、独立させると宣言し、もはや言いなりにはなりません。その先も難題に直面しますが、イザヤの言葉と主の言葉に信頼し続けたのが、ヘゼキヤ王です。
さて、ここで横道にそれますが、ヘゼキヤ王も、ある意味「み言葉を託された者」の一人でもあるのです。
これらもまたソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤに属する人々がこれを書き写した。
箴言25:1
ヘゼキヤは教養のある学者肌の人で、ソロモンの言葉の編集も監修していました。以前も触れましたが、旧約聖書の多くは、書かれた後の時代に編集された形跡があります。
聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。
IIペテロ1:20〜21
これはみ言葉を託された者のことですが、これは当然、書き残されたみ言葉の編集にあたった人々に対しても同様のことが言えると、私は確信しています。そして、ヘゼキヤはこの任務にも携わっていたのです。
そのヘゼキヤの生き方は、ダビデの生き方に例えられています。ダビデの生き方がどのようなものだったのかを思い出しましょう。それは、愚直なまでに真っ直ぐなものでした。計算高く、上手に善悪を天秤にかけて測るような生き方ではなく、正しいことを行うのにはそれが正しいことである以外の理由は必要ない、というような生き方でした。だからと言ってダビデが完璧だったというわけではありません。ドジも踏みました。特に、バテシバとの一件は、国を内紛に陥れる深刻な結果をもたらしましたが、ダビデはそこから立ち直り、最後まで正しい生き方を貫き通しました。
ヘゼキヤも正しいことをたくさんしましたが、ドジも踏みました。特に人生の最後の方の失敗が、その後の国に大きな影を落とすことになります。
今日は、最初の失敗についてです。それは、父アハズのしたことを元に戻している過程の中で起きたことでした。それは偶像崇拝を禁じて主の宮を元に戻したことに関することではなく、アッシリアとの関係を絶った中でのことです。おそらく、後に影響を残さないように、丁重に距離を置くようにしたのではなく、いきなりブチっと関係を絶ったものと思われます。当然、アッシリア側はいい気をしません。当然、怒ります。そして、攻めて来ます。
ヒゼキヤ王の第四年すなわちイスラエルの王エラの子ホセアの第七年に、アッスリヤの王シャルマネセルはサマリヤに攻め上って、これを囲んだが、三年の後ついにこれを取った。サマリヤが取られたのはヒゼキヤの第六年で、それはイスラエルの王ホセアの第九年であった。アッスリヤの王はイスラエルの人々をアッスリヤに捕えていって、ハラと、ゴザンの川ハボルのほとりと、メデアの町々に置いた。これは彼らがその神、主の言葉にしたがわず、その契約を破り、主のしもべモーセの命じたすべての事に耳を傾けず、また行わなかったからである。
まずは、北のイスラエルです。これで、イスラエルという国名が世界地図から消えました。彼らはこの捕囚から帰ってくることはありませんでした。そしてその8年後、ユダに攻め込んできます。北の事態を目の当たりにしていたヘゼキヤはさすがに怯えました。そして、咄嗟に拙速な行動に出てしまいます。のちには主に信頼して難を回避する行動を取るのですが、当初はそうではありませんでした。アッシリアから独立したことを謝罪し、軍を引いてもらうための違約金の支払いを申し出ます。これに対してアッシリアが告げてきた違約金とは、相当な額の金と銀でした。
ヘゼキヤは、父アハズが神殿から剥ぎ取った金銀を元に戻していたのですが、ここでは仕方なくそれをもう一度剥ぎ取り、アッシリアに納めることになってしまいました。単純に人智でことを済まそうというこの行為は、国力を弱め、また敵に対して、「付け込みやすい」という印象を与えることになってしまったのです。さらに、アッシリアの脅威の危機はまだまだ終わりません。その経緯はまた来週。
心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。あなたの財産と、すべての産物の初なりをもって主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は満ちて余り、あなたの酒ぶねは新しい酒であふれる。
箴言3:5〜10