み言葉を託された者:イザヤ(5)
ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。主は言われた、「町々は荒れすたれて、住む者もなく、家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、人々は主によって遠くへ移され、荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている。その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる。テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、その切り株が残るように」。聖なる種族はその切り株である。
イザヤ6章
これが預言者イザヤの献身のシーン、20歳前後と見られています。以前にも述べたように、イザヤは国王の甥で王室のインサイダーでしたが、この若さで、自分を育ててくれた王室に対して厳しい預言の言葉を向ける立場となりました。
「ウジヤ王の死んだ年」から始まる箇所ですが、実はこの史実が当時の状況に大きく関わっています。そもそも、この辺りのイスラエルとユダは、内外ともに大きな転換の時期を迎えていました。周辺国との関係で言えば、ダビデの時代は最大の宿敵はペリシテという、小国家ながら強力な軍事力を持つ単一民族国家でした。ダビデがこれを軍事的に抑え込み、属国にして、そこから製鉄技術を教わり、イスラエルを青銅文明から製鉄文明の国に育てます。
しかし、今は様子がだいぶ違います。北にはアッシリア、東には第19王朝バビロンがそれぞれ、メキメキと力をつけ、世界覇権を狙い始めています。それに対して、今までは絶対的な超大国だったエジプトは、もはや絶対的な存在ではなく、さまざま存在する軍事国家のひとつ、「ワン・オブ・ゼム」になってしまっていました。
しかし、もっと厄介なのが、南北分断中のイスラエルとユダの中のリーダーたちでした。強力な外敵に対しては、主に信頼して立ち向かえば勝てることは過去にも証明されてきたのですが、肝心のリーダーたちが主ではなく他のものに頼ろうとするのです。これを諭さなければならないというのが、イザヤの任務です。そして、どんな外圧よりも、訳がわかっていない身内の方が遥かに面倒くさいというのは、今も昔も変わりません。
では、どのような面倒くさい身内がいたのでしょうか?
まず、ウジヤ(アザリア)王ですが、実は政治や軍事の手腕に長けていて、政治と軍事の力でユダの繁栄を取り戻します。しかし、主の助けを得て成し遂げたことが自分の功績であると錯覚して自己陶酔し傲慢になり、そのことから自らの身の破滅を招いてしまいます。
ウジヤはその全軍のために盾、やり、かぶと、よろい、弓および石投げの石を備えた。彼はまたエルサレムで技術者の考案した機械を造って、これをやぐらおよび城壁のすみずみにすえ、これをもって矢および大石を射出した。こうして彼の名声は遠くまで広まった。彼が驚くほど神の助けを得て強くなったからである。ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。その時、祭司アザリヤは主の祭司である勇士八十人を率いて、彼のあとに従ってはいり、ウジヤ王を引き止めて言った、「ウジヤよ、主に香をたくことはあなたのなすべきことではなく、ただアロンの子孫で、香をたくために清められた祭司たちのすることです。すぐ聖所から出なさい。あなたは罪を犯しました。あなたは主なる神から栄えを得ることはできません」。するとウジヤは怒りを発し、香炉を手にとって香をたこうとしたが、彼が祭司に向かって怒りを発している間に、重い皮膚病がその額に起った。時に彼は主の宮で祭司たちの前、香の祭壇のかたわらにいた。祭司の長アザリヤおよびすべての祭司たちが彼を見ると、彼の額に重い皮膚病が生じていたので、急いで彼をそこから追い出した。彼自身もまた主に撃たれたことを知って、急いで出て行った。
II歴代史26:14〜20
ウジヤはすぐに命を落としません。王権を握っていたのは28年間で、そこから23年の闘病生活に入ります。任務を遂行することができないため、政治を後任のヨタムに託します。ヨタムはそこそこ良い政治をするのですが、十数年で終わってしまいます。その後に登場するのが、暴君のアハズです。このアハズの暴走を唯一抑えていたのが、御隠居のウジヤの存在でした。ウジヤは、この暴君アハズに国政を任せてはいけないと考え、日本の後鳥羽上皇のようにカムバックの機会を狙っていたのですが、ついに病に負けて帰らぬ人となります。
さて、目の上のたんこぶがなくなったアハズここからはやりたい放題です。つまり、イザヤ6:1の「ウジヤ王の死んだ年」というのは、「アハズ王暴走元年」と読み替えてもいいのです。ユダの置かれていた状況をうまく説明したフレーズです。
さて、北のアッシリヤに対抗しようと、イスラエルとダマスコ(シリヤ)が軍事同盟を結び、ユダに参加を持ちかけます。ユダがこれを拒むと、イスラエルとダマスコがユダに軍事侵攻します。これに対して、アハズはあろうことか、イザヤのアドバイスを押し切ってアッシリアに軍事支援を求め、属国宣言してしまうのです!
さて、今日の世界史の時間はここまでとして、これほどの内外ともに面倒な状況になっていた中で、イザヤが献身に踏み切って手を挙げたということをご理解いただければと思います。イザヤは学も教養もあり、自分がどのような状況に立つこともわからずに情熱だけで挙手したわけではありません。しかし、その直後に主から託されたその言葉に愕然とします。圧倒的な破壊と滅びのメッセージです。そこで、イザヤは問います。
「主よ、いつまでですか」。
これは、「いつまでこのメッセージを伝え続ければ良いのでしょうか」ということではなく、「そのような状況がいつまで続くのでしょうか」ということです。
主は言われた、「町々は荒れすたれて、住む者もなく、家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、人々は主によって遠くへ移され、荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている。その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる。テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、その切り株が残るように」。
つまり、どうやっても、この国はそのプロセスを経ることになる、という主の宣言です。国を助けて建て直すことには、今の時点では期待してはいけない、というのです。しかし、だからと言って希望がないわけではありません。
「聖なる種族はその切り株である。」
これは、「ひこばえ」というものです。完全に切り倒されてなくなったと思われた木の切り株から、新しい生命が芽生えて、栄えるのです。絶対的な絶望に見える状況こそが、実は希望なのです。これがイザヤ書に見られる希望、来週から徐々に紐解いていきたいと思います。