2023年新年礼拝
わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。
黙示録21:1〜5
新年礼拝のためにこの聖句を選びました。新しい天と新しい地、全てが新しくなるというシーンです。これを心に新年を迎えれば、新しい年は良くなるかな?その答えは、イェスでもありノーでもあるのです。
まず、ノーの方から考えていきましょう。年が変わったからといって、世界が奇跡的に変わるわけでもないし、私たちも奇跡的に変わるわけでもありません。気持ちの面で新しい気持ちになっても、気持ちは長続きしませんし、それだけでは物事も変わりません。私も、「今年こそは!」という思いはありますが、年が明けても前年と同じことをして過ごしていることでしょう。なぜならば、年越しの仕事を抱えていて、元旦の聖日こそは仕事をしませんが、正月明けから同じ仕事が続きます。
欧米には、新年に「新年の決意」をするという風習があります。「今年こそは悪いクセをひとつやめる」とか、「今年こそは勤勉に頑張る」とか。しかし、このような決意が三日坊主で終わってしまうのは、どこの国のどこの文化でも同じでしょう。
ソロモンも、「新しい」ものに期待することに対して、冷ややかな視線を送っています。
先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。
伝道の書1:9〜11
新年早々に、何たる悲観的な聖句か、と思われるかもしれません。しかし、これは単に新しいものに非現実的な期待を寄せていることを否定したものであって、全てが新しくなることに対する期待というものは別物です。
主も、イスラエルがエジプトを出るとき、律法の制定に先立って「過越の祭り」を制定されました。そして、その過越の祭りを正月としなさい、と命じられています。それだけ重要な意味合いがある祭りということです。
しかし、過越の祭り、特に初回の過越の祭りは、決して楽しく明るい祭りではありませんでした。戦時中の消灯下のように、各家庭でひっそり守るものでした。出歩いたり騒いだりしません。それは、滅びの使いがやってくるからです。その滅びの使いが、門中に塗られた子羊の血を見たとき、その家に死をもたらすことなく、その家の上を過ぎ越す、というのが主旨でした。
私たちは、今の新約の理解を持っていますので、その子羊はイェスの十字架の象徴、そして滅びの使いを過ぎ越させた血は主のあがないの御業である事がわかります。また、完全な過越の羊であるイェスの十字架を背にして、過越の祭りの準備に急いだ人々の理解のなさがわかります。
しかし、過越が新年であるということは、新年と、罪に対する罰とが同居することになります。私たちが毎年迎える新年は、罪も罰もなくなるような新しい世界とは関係なく、私たちは罪と罰のある世界に住み続けなければなりません。パウロも次のように述べています。
被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。
ローマ8:19〜25
そう、私たちもこの真っ只中にあり、そして全被造物と同様に、これが本来あるべき姿ではない、ということもわかっています。だからこそ、私たちは新しい天地に憧れるのです。当然で自然なことです。
イェスの弟子たちも、イェスにイスラエルの復興と、新しい世界を期待しました。しかし、イェスの答えは、彼らの期待するものではありませんでした。
彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
使徒業伝1:7〜8
そう、御国の到来時期を早めたりとか、こじ開けたりしようとすることは、私たちのすべきことではありません。そのように人為的に御国を早めたいという人間の心理を利用していくつものカルト集団が作られてきましたし、いくつもの大規模な詐欺が行われてきました。御国とはそうではなく、私たちが「遠く仰ぎ見る」ものです。そして、その御国到来までの時間は、私たちが置かれた場所で咲き、主の証人となるのです。
しかし、そうとは言っても、この世の中で確実に新しいものも生まれます。しかし、それはどこかの場所から、またいつかの時点でやってくるものではありません。それは、私たちが心と体を主に委ねたときに、私たちの中で起こることなのです。
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
IIコリント5:17
だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
IIコリント4:16〜18
これが、最初のイェスでもありノーでもあるところのイェスの部分です。新年であるか否かに関わらず、私たちは新たにされ、周囲に良い影響と良い状況をもたらすことができるのです。そして、そのように生きたいと思ったなら、そのようにするに必要なのは何かしらが切り替わるタイミングではなく、「今日」という日に他ならないのです。