2022年クリスマス(4)/年末礼拝
またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。
黙示録14:13
今年の最後の礼拝に、クリスマス直前に天に召された、とある人について簡単にお話ししたいと思います。その名前はケィティー・エルキンズ、私の叔母です。
ケィティーはとてつもなく優しく、とてつもなく強い女性でした。私が子供の頃にアメリカに帰国すると、必ずその家を訪れてお世話になりました。いつ行っても親切に迎えてくれて、とても居心地の良い家庭でした。
ケィティーは自分の子供4人を育て終わると、今度は教会の青年会の若者を世話したり、日本からの留学生をホームステーさせたりと、いつも誰かのために動いていました。近所のコミュニティーにも積極的に関わり、クリスチャンからもそうでない人からも信用され、愛されていました。夫婦ともに素朴な人柄ながらも、教会においてもコミュニティーにおいても、力強い存在でした。
私がその家を訪れた中で、子供の頃から特に印象に残ったのがクリスマスの時期の家の様子です。リビングの奥に、天井まで届く大きなクリスマスツリーがあり、そして至る所にクリスマスの飾りがおいてありました。ひとつひとつがそこそこいい値段するのではないか、と思われるものばかりです。
そして、その家を訪れるたびに、その飾りが増えているのです。私が10年ほど前に最後に訪れた時は、飾りのあまりの多さに、リビングがまるで小さな博物館か資料館のようになっていました。電気を使って光るものや、機関車が丸いレールの上をクルクル走るものなど、電気を使うものが多く、その電気を賄うためにご主人(私の叔父)に特別に大きな電力が取れる回路の工事をしてもらいました。
そしてその年、ケィティーはその増えるクリスマス・グッズの訳を話してくれました。別に秘密にしていたわけでは無なかったというのですが、そこまでゆっくりと話す時間を持てたのが初めてだったのです。その背景は、ケィティーの育ちにありました。
ケィティーが育った家は、裕福でしたが、両親がきわめて多忙で、子供に時間や手間をかける素振りもしなかったと言います。クリスマス・プレゼントは、ただの一度ももらったことはなかったのです。その代わり、母親がいつもクリスマスの時期に大きな額のお札を渡し、
「これで自分の好きなものを買って、プレゼントにしなさい」
と言われたというのです。
どんなに小さなものでもいいから、気持ちと愛情がこもったプレゼントが欲しい、いや、プレゼントなどいらないから、気持ちと愛情が欲しい、と思いながら、毎年、心寂しく、そのお札を持って自分のプレゼントを買いに行ったそうです。
しかし、何を買おうか?自分の好きな洋服などは、今の気持ちからすると、よけい空しい気持になってしまうでしょう。そこで、ケィティーは考えました。
「そうだ、他の人々が今の私のような気持にならなくていいように、私が人々に優しい気持ちと愛情を与えられるような人になろう!でも、今の心境の私にはそのような心がないから、私の心が温まるようなものを買って、その温かい気持ちを人に分け与えよう!」
そこで、ケィティーは店を回って、自分の心が温まるものを探しました。そして、見つけました。クリスマスの装飾品です。見ているだけで嬉しくなり、心温まるものでした。そこから、ケィティーの生涯を通してのクリスマス装飾品の購入が始まりました。その後大人になっても、結婚しても、子供ができて大変な時期でも、必ず毎年ひとつ、年によっては数個、買ってコレクションにしていきました。そして、それらの装飾品からもらった力と優しさとを、周囲に放ち続けました。
何かの逆境に置かれた時、あるいは理不尽な状況に立たされた時、多くの人はそのネガティブな思いを周囲にぶつけて、自分の心の均衡を取ろうとします。人間の心理において自然なことです。しかし、自然なことであるということは、同時に、肉の思い出もあるということです。
しかし、ケィティーの場合は、絶対にそのようなことにはならないぞ、という強い決意がありました。自分の中のマイナスを、絶対にプラスに変えて人々に愛と優しさを届けるぞ、という強い決意がありました。それはどこから来たのでしょうか?
それは、幼少期の教会の日曜学校での教えにあったようです。
だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。
ローマ12:17〜18
大好きなクリスマス直前にホスピスに入ることになり、とてもがっかりしたと思います。その数日後には、天に召されていました。しかし、今ケィティーは、最大級の「キリストの集い」の真っ只中にいます。キリストの御座の前で讃美し、礼拝しているのです。私たちもいずれ加わることになる、永遠のクリスマスを祝っています。そして彼女の行いは、確実に人にも神にも覚えられ、彼女の後について行っています。
今日は、私の親戚一人の生き様を考えましたが、皆様の人生の中にもこのような信仰者がいた、あるいは今もいるかもしれません。私はそのような方々の足元にも及びません。しかし、だからと言って私ちはそのような方々を模範として生きないというわけにはいきません。私たちの肉の思いは負を負で返す性質であっても、私たちの天の父にはそれとは違う目的を私たちに持っているのです。
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。
エペソ2:10
来週は、新年礼拝です。
皆様、良いお年を。