八王子バプテスト教会通信

12月18日のメッセージ 2022年12月18日

2022年クリスマス(3)

あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。

ルカ6:30〜36

 

今年も、クリスマスウィークに突入しました。今年は第7波が収まれば、クリスマスと新年の礼拝は対面でできるかなと期待していたのですが、そうはいかないようです。このクリスマスの時期に、お互いのことを覚え、お互いのために祈りましょう。

 

さて、今日のメッセージです。

私が小学生だった頃の教頭先生と、高校生だった時の校長先生には、共通点がいくつかありました。ひとつは、二人とも極めて真面目だったということ。それから、二人ともクリスチャンであったこと。そして、クリスマスイブのあたりに、いなくなること。なぜいなくなるのかと言えば、ボランティアに行っていたのです。どのようなボランティアかといいうと、新宿や代々木あたりの路上生活者の方に毛布を配っていたのです。寒い中大変だな、とも思いましたが、他の疑問も湧き上がりました。

 

「クリスマスイブに毛布をもらった人たちは、クリスマスイブ以外の時でも寒いんじゃないか?」

 

相変わらずの屁理屈屋ですが、今回はこれが正論でした。クリスマスイブに寒空の下で過ごすのに毛布が必要な人々は、クリスマスイブ以外でもさまざまな物を普段から必要としているのです。それらのものが届いているか、足りているか?を考えるきっかけになるのです。先生方も普段は非常に多忙で、中々そのような活動に多くの時間を割くことができません。仕事を辞めてボランティアに専念する人もいますが、そうなると、その人の生活資金をどうするか、という問題が生じます。

 

聖歌・讃美歌の多くの歌詞を書いた19世紀アメリカの盲目の詩人、ファニー・クロズビーもこの問題に生涯を捧げました。8000曲以上の礼拝音楽の他にも、収入を得るために多くのポップやクラシックの曲も書きました。彼女は「レスキュー・ミッション」という、現代の貧民救済事業の原型となるような事業を立ち上げ、いくら収入が入ってきても、自分のその日の食糧費と、慎ましく暮らしていたボロアパートの家賃に充てるお金以外は全てその事業につぎ込み、貧しい人々に配らせていました。その事業の資金を確保するために、彼女はストリップ小屋や売春小屋で演奏されるような音楽も書き、批判の対象になっていたのも事実です。このように、貧民救済のテーマは、果てしなく問題と矛盾に満ちているのです。

 

そもそも、12月24日に貧しい人々に分け与えるという風習は、キリスト教の中から出てきたものではありません。ユダヤ教の中にもそのようにする祭りはありましたが、12月24日にそうするのは、古代ローマの「サタネリウス」という、日迎え祭り(遠くに行ってしまった太陽を呼び戻す祭り)にあります。その日には、人々はプレゼントを交換したり、持たない者に惜しげなく分け与えたりしました。その日ばかりは、ローマ中どこも、満腹になっていない貧民はいなかった言います。その日ばかりは。

 

しかし、これでは問題の根本的な解決になりません。焼石に水、というよりは象徴的な儀式で終わってしまっています。根本的な解決が必要なのですが、これが中々実現しないのです。旧約聖書においても新約聖書においても、私たちは貧民を救済することを命じられていますが、貧困を無くすことは命じられていません。イェスも、貧民の問題に生涯携わりながら、貧民がいなくなることはない、と明言されています。

 

貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。

マルコ7:14

 

使徒ヨハネの愛弟子、ポリュカルポスは2世紀の半ば、ローマの政敵として逮捕され、公開処刑にされました。潜伏先にローマの代官が現れると、ポリュカルポスは彼らを手厚くもてなし、食事を与え、その食事の時間を利用して、教会の関係者と自分が亡き後の事柄について確認作業をしていました。その内容とは、貧民支援をどのように続けるか、の確認だったそうです。

 

一方、私たちは昔とはだいぶ違う世界に住んでいます。今の民主主義の世界では、私たちは自分達の税金のより多くが困っている人たちの生活の支援に回されるようにする制度を実現する政党に投票することができます。しかし、これにも問題があり、社会主義国家のようにほとんどのお金がそのように管理されるようになると、貧民は減るものの、いくら働いてもほとんどの収入が国庫に入ってしまうのでは人々の働く意欲が削がれ、結果的に国が貧しくなってしまうこともあります。また、汚職や政治腐敗の温床にもなってしまうのです。強制的に進めようとすると、カンボジアのクメール・ルージュによる、自国民200万人の虐殺、というような悲劇につながってしまうこともありうるのです。

 

実際、このような矛盾だらけの問題だからこそ、人々は昔から年に一度だけ都を差し伸べ、自分が少しでも何か良いことをしたという気持ちを持ちたかったのかもしれません。それはどこかでズルいし、解決になっていないというふうにわかっていても、その特別な祭りの雰囲気に身を任せて。

 

この現状について、アメリカでは面白い比喩がなされます。それは、クリスマス時期の食べ過ぎと重ねるというものです。アメリカ人の食べ過ぎ、太り過ぎは世界的にも有名ですが、アメリカ生まれの私も日本で育っているため、とてもついていけません。アメリカの教会、特に南部の教会で頻繁に行われる行事に、potluck「パットラック」というものがあります。教会員各自が料理を持ち寄り、大きなテーブルの上に料理を並べて、ごちそうを共有するのです。近所の貧しい人々が来て一緒に食事をしても、あるいは家にいる高齢者や障害者のために多少持ち帰っても、おとがめ無しです。ちょうど、「愛餐会」と「大食い大会」を合わせたようなものです。

 

そのパットラックの席に、ちょっと困った存在がいます。それは、パットラックに全てをかけているおばちゃんたち、おばあちゃんたちです。一人で何品も作ってきてみんなに食べてもらうことを生きがいにしているのです。それはそれでいいのですが、テーブルの脇に立って、誰が何をどれだけ取ったのか、監視しているのです。自分の焼いてきたケーキやパイを何も取らなかったら、激しく詰め寄って、強いて皿に乗せてくるのです。私も何度も、そのようなごちそう攻めで食べ過ぎて、めまいがして帰りの車の運転も不安になったことがあります。

 

このような祭りは世界各地で見られ、古代エルサレムでも、仮庵の祭りなど、祭りの度に食べ過ぎ、飲み過ぎた人々が大通りで寝込み、大八車も通せないほどであった、と記録されています。たまにはいいのではないでしょうか。

 

しかし、アメリカではクリスマスの1ヶ月前に別の祭りがあります。感謝祭です。感謝祭も七面鳥の丸焼きなど、ごちそう尽くめです。実際、感謝祭からクリスマス明けまで、1ヶ月間、暴飲暴食にふけることができるような事態なのです。そして、その1ヶ月で体重が5キロ以上増えてしまったということも当然のごとく一般的にあるのです。そこで、「感謝祭からクリスマスの間、食生活に気をつけよう!」という掛け声が上がります。

 

しかし、これに水を差す声もあります。

 

「気をつけるべきは、感謝祭からクリスマスの1ヶ月ではなくて、クリスマスから感謝祭の11ヶ月間ではないか?」

 

いや、まさにその通りなのです。人間ドックの後の「お説教タイム」で医師にこのような日常の注意点を指摘されるのです。そして、それが今日の主題です。クリスマスの1日に人々に心を開くのは結構ですが、残りの364日も同様に重要なのではないのでしょうか?

 

最後に、今日のポイントをまとめたいと思います。

 

・貧困問題を完全に無くすことはできない。わたしたちがこの地上にいる限り、必ずそれは存在し、わたしたちが信仰者としてそれと向き合わなければならない。

 

・私たちができることは様々で、その時々にできることに対応できるよう、普段から心づもりしておくことが必要。

 

・状況を問わず、目の前に困っている人がいたなら、助けないという選択肢はあり得ない。

 

あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。

ヤコブ2:13〜17

八王子バプテスト教会通信-過去の投稿リスト